SONY

第1話 鞄にポンッ!パスポートサイズ

パスポートサイズになった
「CCD-TR55」

 これまでの8ミリビデオにはない小型サイズを達成した、プロジェクト88の成果である“隠し玉”を市場に出すに当たり、何か需要を喚起する新しいコンセプトを打ち出さなくてはいけない。そのことは、お客さまのアンケート結果からも感じ取っていた。「やはり旅行だ。最近は旅先に持って行く人が多い。海外旅行に行く人もどんどん増える。ターゲットユーザーは、旅行好きの若い独身たちだ」

 1989年5月31日、ついに隠し玉は発表の日を迎えた。コンパクトカメラ並みの大きさとまではいかなかったが、「CCD-TR55」は見事に出っ張りがなくなり、録画・再生ビデオカメラとして世界最小・最軽量(発表当時)を実現した。質量はわずか790グラム。価格は16万円で6月21日発売と決定、夏商戦直前の発表であった。

 発表当日から、ソニーとして初めての「予告テレビCM」が始まった。若い男女に当時人気絶大の女優、浅野温子が「CCD-TR55」をパスポートで隠して、「発売をお楽しみに」と告げるのである。

 この予告CMは発売前に人気をあおり、予約が殺到した。予想をはるかに上回る勢いで「CCD-TR55」は売れ出した。通常の10倍用意した5万台は2日間で売り切れ、それから3ヵ月間生産が追いつかない状態が続いた。

 当初は「CCD-TR55」のサイズをアピールするために、「世界サイズ」「旅にできた」というキャッチコピーが広告に使われていたが、6月に売り出してみると、CMを見たお客さまは「あのパスポートサイズのビデオカメラを下さい」と注文する。そこで7月中旬からは、お客さまの言葉を拝借して、「パスポートサイズ」のキャッチコピーを広告に使うようになった。

 すでに、この8ミリVTRシリーズには、1985年に発売した「CCD-M8」以降、ハンディタイプのカムコーダーという意味で「ハンディカム」と名付けられていた。それに「パスポートサイズ」というシンプルなフレーズが加わり、「さあ、鞄にポンッと投げ込んで、旅に出ましょう、そして貴重な思い出を記録しましょう」という、時代に合ったコマーシャルが、見事にお客さまの心を捉えた。

 品不足の嬉しい悲鳴が依然として続く10月、さらに嬉しいことが起きた。「CCD-TR55」が、通産省が選定するその年の「グッドデザイン(Gマーク)大賞」に、あらゆるジャンルの4000点近い工業製品の中から選ばれた。デザインはもちろん、機能、品質、価格面から総合的に最も優れた商品として認められたのだ。大賞の受賞は、ソニーにとって初めてのことであった。

第2話 U-マチックの別の人生?

米フォード社に納入さ
れたU-マチック・システム

こうして、家庭用VTRの夢はベータマックス、8ミリという形で着実に果たされていった。さて、話はU-マチックに戻る。

 1971年に発売した世界初のカセット式VTR(当初は再生専用機、のちに記録・再生可能機を発売)であるU-マチックは、家庭用として開発したがソフトウエアのプログラム記録済みテープの値段が高く、本体も安く作れそうにない。当時、社内ではベータマックスの開発が第2開発部で始まっており、発売前から「U-マチックは、家庭用途ではどうもうまくいきそうもない」と危ぶむ声があった。

 いち早くU-マチックの行く末を案じた社長の岩間は、「PV-100」(1962年に開発したトランジスタ式ポータブルVTR)のマーケット開拓の時の経験を見込んで、森園にU-マチックを任せることにした。「U-マチックが、新たに開発を始めたベータマックスと競合しないよう、家庭用以外の使い方を考えてくれ」と命じたのである。

森園は「私は、溺れる者がつかむための“わら”ではありません」と辞退してみたが、岩間から「5年間どんなにお金を使っても、人集めしても、赤字でも一切口を出さない。大成功でなくてもいいからU-マチックを何とか活かしてくれ」と言われてついに引き受け、U-マチックの生産が始まったばかりの厚木工場へ移っていった。当然のことながら大赤字のスタートとなった。

 肝心の販売先だが、森園は「大企業の社内教育用にどうか」と考えた。企業なら、実験的な使い方をする人もいるに違いない、とアメリカで業務用VTRの販売に携わる角田浩一(つのだ こういち)に命じ、アメリカのフォーチュン誌の「トップ500」の上位の企業を狙って、「セールスマン教育や情報伝達などの社内教育用に最適なシステム」と提案しながら売り込ませた。狙いは当たり、IBM、コカ・コーラ、フォードなどそうそうたる企業が大量に購入してくれたのである。これがいわゆる、「あなた方が抱えている問題のソリューション(解決法)を提供します」というソリューション・ビジネスの始まりだった。

 家庭用としては活かされなかったが、活躍の舞台を変えたことで、U-マチックは新たな生命を吹き込まれた。

 アメリカの大企業からの大量オーダーをきっかけに、ヨーロッパでもどんどん売れるようになった。普及が進むと、お客さまからの要望も入ってくる。「自分でビデオプログラムを作りたいので、撮影するカラーカメラや編集機が欲しい」「ポータブル機も欲しい」などなど。ユーザーのニーズに応えたラインアップが徐々に増やされていった。

第3話 ニュース報道は「即時性」が命

ENGの先駆けとなったBVシリーズ
VTR (使用時は左のポータブルタイ
プとビデオカメラを組みあせて撮影)

森園が厚木工場へ移ってきて3年ほど経った1974年頃、ソニーを訪れた「ある人物」からの「お願い」がきっかけで、U-マチックはさらに羽ばたくことになる。その人物とは、米3大ネットワークの1つ、CBSの副社長ジョー・フラハティー氏。彼の要望は、「もっと軽くて便利で、少なくとも16ミリフィルムと同じ画質の放送局専用のU-マチックが欲しい。我々もアイデアを出すから、ぜひ開発してほしい」というものであった。

 当時は、フィルムカメラによる取材の機動性の方が、大型中継車に大きなスタジオカメラや据え置き式VTRを積み込んで行うVTR収録よりも優っていた。しかし、ニュース報道は「即時性」が命、こちらはVTRのほうが断然優れている。それは、フィルムのように現像やテレビ用信号への変換が必要なく、時間と費用がかなり削減できるからである。両方の利点を併せ持つシステムがあれば、と常々そのように感じていたCBSでは、U-マチックが1971年に発売されると、業務用のハンディ・ビデオカメラと組み合わせて、独自の取材方法を編み出していた。1974年のニクソン大統領のモスクワ訪問の時も、このU-マチックを使った革新的なシステムで他社を出し抜き、家庭に映像を送った。しかし、U-マチックはもともと一般家庭用をターゲットに開発されたもので、放送局で本格的に使うプロ用システムとしては、改善しなくてはならない部分がある。そこで、「放送局専用を」というお願いを持ってきたのだ。

放送局用マーケットへ参入する計画など持っていなかった森園であったが、フラハティー氏の積極的な言葉に、「やってみよう」という気持ちになった。早速、フラハティー氏が同席する森園の部屋へ部下の技術者を呼んで、「放送局用のU-マチックを手がけることになった。1年間で商品化してくれ」と言ったから、一同驚いた。

 何しろ、U-マチックは放送局用に設計した機械ではない。しかも、開発期間は2年ほどかかるのが普通なのに、随分乱暴な話であった。厳しい要求ではあったが、技術者たちのやる気を駆り立てたのは、何よりも、「お客さまの欲しいものがはっきり見えている」製品作りということだ。ユーザーの要求をどんどん採り入れ、フィルムシステムよりも便利で、コストセーブができるシステムを作り上げればよいのである。他社との競争は考慮に入れることなく、コストと期限の勝負である。かくして、寝る間も惜しむ開発作業が続き、1年が過ぎていった。CBSの技術者は年がら年中厚木工場を訪れた。彼らは、理想の機械を得るために妥協を許さなかった。

 そして1976年、ついに放送局用のU-マチックが誕生した。取材現場で、撮影から記録、編集のできる、小型で高性能の放送用U-マチック「BV(Broadcasting Video)シリーズ」の完成である。この新しく生まれたニュース取材システムは、森園とフラハティー氏によって、「ENG」(Electronic News Gathering=ビデオによるニュース取材)と名付けられた。使い手の要望を実際に聞きながら完成しただけあって、評価は上々だった。ENGシステムを採用することで、放送局のオペレーションコストは大幅に下がる。世界中の放送局で、フィルム取材からENGへと移行が進んでいった。やがてBVシリーズはENGにとどまらず、EFP(Electronic Field Programming=テレビ屋外番組制作)という分野でも新たに活用されていくのである。

第4話 世界の放送業務用VTRのスタンダード

読売テレビにずらりと並ぶ
1インチVTR

ENGシステムによって、テレビ局のニュース取材は生まれ変わった。しかし、放送局用機器はそれだけでない。ENGシステムの開発と並行して、「スタジオの番組制作用」や「ドラマのロケーション用」に使う放送局用マスターVTRの開発が、森園の指示によって進められていたのである。

 当時は、冷蔵庫2台分ぐらいある大型で高価な2インチテープ・4ヘッド方式のVTRが放送局用マスター機の主流で、米国のアンペックス社とRCA社が市場を2分していた。業界で20年の歴史を持つ両社の機械がスタンダードとなっている市場へ、放送機器ビジネスを始めたばかりのソニーが本格的に参入していくのは生やさしいことではない。しかも、ソニーは1966年、参入した放送局用音響機器ビジネスから一度撤退した前歴があった。再参入するにはそれなりの覚悟が必要である。森園は「再参入するからには、業界ナンバーワンのメーカーになろう。世界中の放送局で使ってもらえる高度なプログラムのできるVTRを作って、ソニーの放送局ビジネスを育てていこう」と決意し、開発を進めた。

試行錯誤の末、1976年に完成・発表したのは、これまでの2インチ4ヘッド方式よりも大幅に小型化し、2インチの弱点をカバーした1インチ1.5ヘッド方式VTRである。価格、ランニングコスト、収納スペースが従来の3分の1で済むものだった。この機械を抱えて世界中の大手放送局を回ったが、最初の反応はどこも冷たかった。この分野で、過去に撤退したことがネックとなっていた。「もう二度とご迷惑をおかけしません」と頭を下げ、根気よく説得・販促活動を続けていく。森園たちは、放送局ビジネスではユーザーとの信頼関係が何よりも大切であることを再認識した。

 当時、ソニーは、放送局用1インチVTRの規格統一をめぐって、アンペックスなど数社と「SMPTE」(全米映画テレビ技術者協会)を舞台に活発な議論を繰り広げていた。結論が出ないうちに、放送局に売り出して大丈夫なのだろうかと心配するところだが、森園は腹を決めた。「この画像を見たら、皆買ってくれるはず。お客さまには『SMPTEで規格が決まり次第、ソニーが責任を持って実費で改造して規格に合わせます』と約束すれば、納得するだろう。それよりも、商売は今しかないと思った時にやるべきだ」。いざアメリカの放送局に売り込んでみると、この約束に安心して、たくさんの放送局が1インチVTR(通称ノン・タイプC。規格統一された放送局用1インチVTRはタイプCと呼ばれる)を買ってくれた。

 その上で、森園は規格統一に臨んだ。「世界に通用する製品にするには、フォーマットを統一しなければならない。お客さまも困るだろう。アンペックス社と話し合おう」。そしてアンペックス社へ出かける前、同行する技術者たちに森園はこう言った。「もし、アンペックスの技術が良ければ、彼らの意見に従ってもよいというくらいの心構えをしておけ」。どちらの技術が良いか、議論を戦わせて決めようというわけだ。

 相手はさすがに伝統とプライドのある会社だけに、彼らの主張にはもっともと思われるものもあり、なかなか折り合いがつかない。しかし、最後は森園の言葉が効いた。「お互いの良い所を合わせて規格を統一しましょう。ユーザーのためです」。ユーザーはもちろん、同業者にも礼儀を尽くそうとする森園の熱意は相手にも伝わった。それからは話し合いもスムーズに進み、1977年12月、ソニーの方式がほぼ全面的に採用され、それまでの2インチVTRの弱点をカバーした「SMPTEヘリカルスキャン1インチVTR・タイプCフォーマット」が誕生した。この規格に基づくソニーの「BVHシリーズ(通称オメガ)」の映像は、生放送と見分けのつかないほどの高画質と、経済性、編集のしやすさから、急速に世界中の放送局に普及し、名実ともに世界の放送業務用VTRのスタンダードモデルとなった。さらにポストプロダクション(撮影後の編集・加工)用の機器を加え、放送局用周辺機器のビジネスを拡大させていった。

 この頃になると、「産業用」「放送局用」両方のU-マチックは着実に売り上げを伸ばすようになり、森園は約束どおり岩間の所へ報告に行った。「5年間頑張って、やっと黒字になりました。海外での売り上げを含めると、かなりの利益が出るようになりました」。「よくやってくれた、ありがとう。よかったな」。そんな温かい岩間の言葉が待っていた。