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報道資料
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1998年1月6日

訃報 井深 大

当社ファウンダー・最高相談役 井深 大(いぶか まさる)は、1997年12月19日 午前3時38分、急性心不全のため、東京都港区三田の自宅にて死去いたしました。
享年89歳。自宅は東京都港区三田2-7-1-702。

添付資料

  • 井深 大
    履 歴
    関係団体
    受章/受賞
    主な著書
    略 歴

井深 大(いぶか まさる)の履歴

明治41年(1908年)4月11日栃木県日光町(現・日光市)に生まれる
父・甫(たすく)、母・さわ
大正10年(1921年)3月神戸市立諏訪山小学校卒業
昭和 2年(1927年)3月兵庫県立神戸第一中学校卒業
昭和 5年(1930年)3月早稲田第一高等学院理科卒業
昭和 8年(1933年)3月早稲田大学理工学部電気工学科卒業
4月PCL(写真化学研究所)入社
昭和12年(1937年)5月日本光音株式会社入社、無線部長に就任
昭和15年(1940年)11月日本測定器株式会社入社、常務取締役に就任
昭和20年(1945年)10月東京通信研究所創設
昭和21年(1946年)5月東京通信工業株式会社を創設
代表取締役専務に就任
昭和25年(1950年)11月東京通信工業株式会社 代表取締役社長に就任
昭和33年(1958年)1月東京通信工業株式会社をソニー株式会社と社名変更
昭和46年(1971年)6月ソニー株式会社 代表取締役会長に就任
昭和51年(1976年)1月取締役名誉会長に就任
平成 2年(1990年)6月ファウンダー・名誉会長に就任
平成 6年(1994年)11月ファウンダー・最高相談役に就任

関係団体

昭和42年(1967年)4月経済同友会幹事就任(終身幹事)
昭和44年(1969年)10月財団法人幼児開発協会創設
昭和46年(1971年)5月スウェーデン王立理工学アカデミー外国会員
昭和47年(1972年)1月IEEE(電気電子技術者協会)ライフ・メンバー
昭和47年(1972年)3月社団法人発明協会会長(平成3年3月退任)
昭和51年(1976年)4月米国ナショナル・アカデミー・オブ・エンジニアリング外国会員
昭和54年(1979年)6月日本オーディオ協会会長(平成4年6月退任)
昭和60年(1985年)5月財団法人ボーイスカウト日本連盟理事長(平成6年5月に退任後、総裁代行に就任)
昭和62年(1987年)4月財団法人鉄道総合技術研究所会長(平成4年3月退任)

受章/受賞

昭和34年(1959年)10月科学技術庁長官賞
昭和35年(1960年)12月藍綬褒章
昭和37年(1962年)5月輸出振興への功績により『総理大臣賞』
昭和39年(1964年)5月電気通信学会功績賞
昭和47年(1972年)3月IEEE(電気電子技術者協会)ファウンダース賞
昭和51年(1976年)3月上智大学『名誉工学博士』
昭和53年(1978年)4月勲一等瑞宝章
昭和54年(1979年)10月早稲田大学『名誉理学博士』
昭和56年(1981年)6月米国アスペン人文研究所人文・技術賞
昭和61年 (1986年)4月勲一等旭日大綬章
5月スウェーデン王国勲一等北極星章
10月1986年エドアルド・ライン・リング
平成 元年(1989年)11月文化功労者
平成 4年(1992年)11月文化勲章
平成 5年(1993年)10月東京都名誉都民
平成 6年(1994年)5月米国ブラウン大学『科学博士』

主な著書

昭和38年 (1963年)『私の履歴書』日本経済新聞社
昭和46年 (1971年)『幼稚園では遅すぎる』ごま書房
昭和48年 (1973年)『この母に学ぶ』ごま書房
昭和51年 (1976年)『機械が先生に勝った』小学館
昭和52年 (1977年)『今こそ必要なオリジナリティー』発明協会
『現状打破の発想』>ダイヤモンド社
昭和57年 (1982年)『0歳児の驚異』文化評論出版
昭和58年 (1983年)『赤ちゃんばんざい!PART I-0歳は純金-』教育出版センター
『赤ちゃんばんざい!PART II-0歳は純金-』教育出版センター
『生まれてくる赤ちゃんのためにお母さんへの贈りもの』教育出版センター
昭和59年 (1984年)『オレたちの行革論』東洋経済新報社
昭和60年 (1985年)『わが青春譜"創造への旅"』佼成出版社
『あと半分の教育 -心を置き去りにした日本人』ごま書房
昭和61年 (1986年)『わが心を語る 子育て母育て』東洋経済新報社
『0歳』ごま書房
平成 3 年 (1991年)『わが友 本田宗一郎』ごま書房
平成 4 年 (1992年)『井深 大の胎児は天才だ』チクマ秀版社
『胎児から』徳間書店

略歴

井深大(いぶか まさる)は早稲田大学在学中から科学技術者としての優秀さと独創性を顕し、当時、特許局でも学生の天才発明家として特異な存在と目されていた。中でも早大在籍中に発明した「走るネオン」は、昭和8年(1933年)パリで開催された「万国博覧会」にも出品され、「優秀発明賞」を受賞している。
日本測定器時代には、会社が軍の仕事を請け負っていた関係もあり、井深は戦時研究委員会に参加しており、ここで後に東京通信工業(株)(ソニーの前身)を共に創設することになる盛田昭夫海軍中尉(現・ソニー ファウンダー・名誉会長)と出会った。
昭和21年(1946年)、東京通信工業(株)を興して以来、井深は創造性、独創性を重んじる技術者・企業経営者として、昭和25年(1950年)に日本最初のテープレコーダー「G型」、昭和30年(1955年)に日本最初のトランジスタラジオ「TR-55」、昭和35年(1960年)には日本最初のトランジスタテレビ「TV8-301」等、次々と日本初、世界初の商品を世に送り出した。
とりわけトランジスタラジオの開発は真空管をトランジスタに置き換え、それまでごく限られた分野でのみ利用されてきたエレクトロニクスを一般家庭にまで普及させる端緒となった。このトランジスタの開発、民生機器への応用は、周辺の部品産業を含めた日本の電子産業の飛躍的な発展に重要な役割を果たした。
既存の技術にとらわれることなく、独自の研究・開発努力によって新たな製品を創造し、さらに新たな市場をも創造していくという会社設立以来の経営姿勢は、現在のソニー(株)に当然のこととして引き継がれている。
世界唯一、ソニー独自のトリニトロン方式カラーテレビ(1968年)、世界初の本格的家庭用1/2インチカセットVTR「ベータマックス」(1975年)、コンパクトディスクプレーヤー(1982年)、8ミリVTR(1985年)、さらにミニディスク(1992年)などの開発・商品化はその好例といえる。
戦前からの日本企業の多くのありかたは、外国製品の模倣あるいは改良程度のことであったが、あえて困難に挑戦し、自ら道を切り拓き、新しい価値を創造するというソニーの企業姿勢は、井深の固い信念に基づいて培われてきたものである。
この企業姿勢は、昭和21年(1946年)に井深が著した東京通信工業(株)の設立趣意書に会社創立の目的として次のとおり宣明されている。
「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」「日本再建、文化向上に対する技術面生産面よりの活発なる活動」「戦時中各方面に非常に進歩したる技術の国民生活への即時応用」「無線通信機器の日常生活への浸透化並び家庭電化の促進」「国民科学知識の実際的活動」……等。

井深は教育問題にも高い関心を寄せていた。
学校教育、中でも小・中学校の理科教育こそが戦後の日本の復興につながると信じた井深の提唱によって、ソニーでは昭和34年(1959年)から全国の小・中学校教育に対する教育資金の贈呈を行っており、この活動は「財団法人ソニー教育振興財団」(昭和47年創立)によって現在も継承されている。井深は同財団の設立以来、理事長を務めていた。
井深の教育問題への関心は幼児教育にも注がれており、昭和44年(1969年)、「財団法人幼児開発協会」を設立し、自ら理事長に就いた。
幼児教育に関する著書も、「幼稚園では遅すぎる」「0歳」「胎児は天才だ」等、多数著している。
井深は「自分でなければできないこと」として、引き続き意欲的に幼児教育の研究や東洋医学、特に脈診の研究などにも力を注いでいた。

以上

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