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アナログとデジタルの「界面」で、2つの世界をつなぐ
ソニーのトップエンジニアが、自身のキャリアと研究開発テーマ、ソニーにおけるエンジニア像について語ります。
第3回は、誤り訂正符号理論の専門家、菅真紀子です。
Corporate Distinguished Engineer
ソニーは、変化の兆しを捉え、持続的な成長のために、技術戦略の策定及び推進と人材の成長支援を行う技術者を「Corporate Distinguished Engineer」として認定しています。
プロフィール
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菅 真紀子
文学少女から数学者へ、運命を変えた恩師の言葉
菅は、愛知県岡崎市出身。物語を書くのが好きで、小説、創作の世界に思いを馳せる少女だった。高校の授業である教師の一言に、彼女の人生は導かれていく。
幼い頃の将来の夢は、「お話を書く人」。想像力を膨らませて作った自作の絵本を近所のポストに投函して回るような子どもでした(笑)。算数の反復練習よりも、小説や国語など想像を膨らませて創作をする世界に思いを馳せる方が好きでした。
今の道へと続く最初のきっかけは、「菅さんの答案は美しいですね」という一言でした。高校での数学の授業の時に、先生からそんな言葉で褒められたんです。できた、できなかったではなく、解答の方法が美しいと。この「美しい」という形容詞が今でも印象に残っていて、そこから数学に興味を持つようになりました。同じ解答が導き出されるにしても、無駄を削ぎ落としたエレガントな道筋をどう描くか。今もそういう部分を大切にしています。
大学での専攻は整数論。19世紀最大の数学者の一人、カール・フリードリッヒ・ガウスが「数学の女王」と評した、美しくかつ他の分野とかけ離れた孤高の領域です。それは、高校で想像していたよりももっと刺激的で楽しいものでした。博士課程へと進学し、交換留学で1年間、イギリスで整数論をより深く学ぶ機会も得ることができました。
私が進学したのが女子大で同じ領域を学ぶ人は限られていたことから、「学内で閉じていてはだめだ」と考え、学外での研究会、交流会にも積極的に参加していました。大学に残るにせよ、企業に就職するにせよ、「交流試合」で鍛えないと自分の世界が広がっていかないと考えたのです。
そんな勉強会の一つ、社会人も参加する代数幾何の輪講でソニー社員と出会ったことで、就職先としてソニーを意識するようになりました。
勉強会での出会いを縁にして、菅はソニーへの入社を決意する。整数論を生かせる誤り訂正符号理論の探求が始まった。
入社の決め手になったのは、ソニー社員の印象や研究に対する取り組み方を直接肌で感じ、彼らのいるチームだったら自分のやりたいことができそうだと確信できたことです。いち学生の私の質問や意見にも真摯に向き合い対等に議論してくれました。そこに自由闊達な気風が見えたんです。飲み会にも参加したのですが、オンオフのメリハリも含めて職場として魅力的に思えました。
入社した2000年当時、整数論のバックグラウンドが生かせる仕事の領域として、大きく2つのトレンドがありました。1つは暗号理論です。整数論のモチーフの一つである楕円曲線を用いた暗号方式を通信に活用できないか、通信系企業が研究開発にしのぎを削っていました。そしてもう1つが、「誤り訂正符号」の1つでもある代数幾何符号です。「誤り訂正符号」は、デジタル通信や信号を取り扱うところで必ず発生するノイズを除去するために必要な理論であり、デジタル化が加速する上でそのニーズがさらに高まっていく領域であることは明らかでした。同時に、数学そのものを深く理解した上で取り組む必要がある奥の深い領域で、入社後、この研究に取り組むことができたのは、私自身にとって大変良かったと思っています。
誤り訂正符号の研究に没頭し、瞬く間に3年が過ぎた。その後、菅は培った研究を土台にした「放送の標準化」活動へと軸足を移していく。
2003年頃から、衛星放送を皮切りに、デジタル放送の第2世代の標準化についての議論が欧州を中心に高まってきました。会社にも慣れ、誤り訂正理論もある程度わかってきたところで、ソニーとして放送の規格の標準化を各国に提案するプロジェクトが立ち上がりました。
私自身は放送規格についてはあまり知らなかったのですが、実は誤り訂正符号と放送の標準化は密接に関わっています。放送も通信もそうですが、信号の送り手と受け手は、会社も違えば使っている機器も違います。送受信の間で取り決めがないと、正しく送受することができません。放送と通信のアナログからデジタルへの切り替えが進む中で、誤り訂正符号の技術を生かしてデジタル信号のノイズを適切に除去することは、伝送の品質に直結します。同時に、放送規格の中で知的財産を抑えることは、当時のテレビ事業の戦略においても極めて重要でした。
世界の新しい放送方式を作る、夢の実現を目指して
ソニーが各国の放送の標準化をリードしていく挑戦が始まった。菅は提案活動のため世界中を飛び回った。
私たちが全世界に提案したのは、誤り訂正符号の一つであるLDPC(Low-Density Parity-Check、低密度パリティ検査)符号のデジタル放送への実装です。「自分たちが世界の新しい放送方式を作る」という意気込みで欧州や米国に乗り込み、現地の方々と喧々諤々議論して、私たちの技術の優位性を認めてもらうべく、前面に立って交渉に当たりました。まだ若手といってもいいくらいの年齢でしたが、「ソニーの代表」としてプレゼンテーションを行い、交渉や駆け引きに臨みました。また当時半導体の部門に所属していましたが、半導体部門の一員が標準化活動に取り組んでいたのも、他のメーカーにはない特色だったと思います。LDPC符号採用後の製品実装を見据え、回路設計やコストを踏まえた提案は、採用の決め手にもなり、いち早く製品化することにつながりました。
ソニーのテレビメーカーとしての数十年の知見を生かし、アカデミックな符号理論とテレビや放送に必要な要件をセットで考えて提案していく、その合わせ技が私たちの強みであり、ソニーというバックグラウンドを背負ってこそできた経験です。世界の放送方式の標準化に携わることができたのは、自分にとって大きな自信につながりました。
10年にわたる標準化活動。その間に、菅はさらに異なる役割も担うようになる。1つはリーダーとして、もう1つは母として。
初めてチームリーダーになったのは、2005年だったと思います。論文を読み、通信をシミュレーションすることは一人でもできますが、当時私がいた半導体の領域では、論文を理解するだけでは成果になりません。最終的に回路として使える技術にまで育てるには、ハードウェアの実装が必要で、 それにはチームでの活動が重要です。以来、個人というよりは常にチームを意識して仕事をしてきました。
組織の中では女性は少なかったので、周囲は心配してくれていたかもしれませんが、私自身はリーダーや管理職になることへの葛藤はありませんでした。
ただ、それと同じくして、出産、育児といったライフイベントがあって大変だったのは確かです。よくワーク・ライフバランスと言われますが、ワークとライフを切り離して別々に考える余裕は正直ありませんでした。保育園での子どものお迎えのため、もちろん残業はできません。18時には帰宅しますが、そこで仕事の思考から家庭の思考へと完全に切り替わるわけではなくて、家事をしながら仕事のことを考えるのが当たり前の生活でした。逆もしかりで、仕事をしながら保育園にいる我が子を案じたりも。仕事と家事・育児が渾然一体とした中で、どう全体の最適化を図るかマネージしながらやってきたという感じです。
Work is Life, Life is Work.「大変な時期ではあったが、それは決してマイナスではなかった」と菅は振り返る。その真意は。
ソニーに限らず、仕事と家庭の両立で苦労している方はたくさんいると思うんです。でも、子育てしているからこそ、仕事で役立つことも見えてきます。忘れられないのは、保育園の先生が行事で使うダンスの音楽を準備する姿。カセットテープを早送りしたり巻き戻したりで、音の出だしをセッティングしていたんです。デジタル化が進んで、ボタン一つ、今ならもっと効率的にできるようなことでも、それが当たり前でない場面が世の中にはたくさんある。そういう現場に接することで見えてくるニーズって、あると思うんですよね。
たぶん、私とは異なるライフステージを歩んでいる方はそんなことに気づく機会を得られはないのでは?と思います。逆に私は知る機会を得た。それは、会社人生にとってもプラスになっています。
社内外の女性エンジニアを対象に、自分の経験を何度かお話しする機会をいただきましたが、「スーパーウーマンになろう」といった話はしないようにしています。いろんな知識、経験を得ることが、家庭にとっても仕事にとってもプラスになる。そう前向きにとらえることが大切。女性エンジニアの皆さんには「あきらめず、頑張っていきましょう」とお伝えしています。業界全体で理系女子の数が限られていることもあり、ソニーの女性エンジニアの数もまだまだ十分とは言えません。多様な視点を生かすという意味でも、女性にとって魅力ある職場づくりに、私も貢献していければと考えています。
活躍のフィールドはグローバル、さらにその先へ
放送の標準化活動がひと段落した2017年からは、センシング関連の研究に取り組んでいる。
画像のイメージセンサーからRF帯を使ったミリ波レーダーまで、さまざまなセンシングに関連した研究開発に取り組む数十人のメンバーの組織を統括しています。私自身は、センシング・AI・IoTの信号処理とシステム構築を主なテーマとして取り組んでいます。
AIと誤り訂正符号技術の間にもつながりがあります。放送のLDPC符号の復号には、ニューラルネットワークのアイデアが用いられているのです。実際、放送用機器向けの復号回路の知見を転用して、ディープニューラルネットワークのプロセッサへの実装技術の開発などに取り組んでいます。例えば、放送のLDPC符号では、ノイズによって誤った0と1を、「どれくらい0らしいか、1らしいか」の確率をもとに相関関係を使いながら復号していきますが、これはある画像が犬か猫かを判断する際に「どれだけ犬らしいか、猫らしいか」という確率情報によって認識するのと共通する仕組みです。
センシングという末端の部分で、精確かつ効率よくデータの変換と信号処理する技術の確立にも取り組んでいます。デジタル化やIoT化が進む中で、今後、ソニーの多くの事業に関わってくる技術です。私の仕事を振り返ってみますと、入社してから現在に至るまで一貫してリアルとバーチャル、アナログとデジタルの「界面」を扱ってきた感覚があります。2つの世界をつなぐ入口をうまくコントロールできるかどうかによって、ソニーのビジネスの価値も変わってくると考えています。
LDPC符号は、情報伝送レートの通信容量の理論限界にまで到達できることがわかっています。つまり今後の研究は、性能の進化、効率性の追求よりも製品回路への実装技術、つまりより現実的なコストやサイズ感で機能をどう実現するか、その落とし込みへの挑戦が続いていくと思います。
エンジニアとして働く上で感じるソニーの魅力は「幅広い事業と自由闊達な職場環境」。
当時の私は、電機メーカーのソニーとして入社したつもりでしたが、今や映画や音楽などエンタテインメントから金融まで、さまざまな事業を手がけています。私が専門とする誤り訂正符号技術や数学も、他の事業と掛け合わせることで思わぬイノベーションが生まれるかもと、自分の発想そのものも広がる部分がたくさんあり、それもグローバルどころか地球を飛び出していけるくらいの可能性がある会社だと思っています。
また、職場としても自由闊達で、年齢や性別、国籍、立場の違いを超えて、相手の意見に耳を傾ける職場風土があると思います。おかげで、私自身も伸び伸びと仕事をしてきました。
同時に日本企業としての良さもあります。自分の仕事ではなくチームで仕事をする意識で、互いに助け合い、困っているときに手を差し伸べる雰囲気があります。日本企業とグローバル企業のいいとこ取りをしている会社だと思います。
事業領域が広く、また自由な研究開発環境があるソニーは、目的意識を持って入ってきた人が存分に活躍できる会社です。逆に言えば、自由な中で自分に何ができるのかと常に問われる会社でもあります。やりたい夢や野望、ビジョンを持って働く仲間と、これからも一緒に頑張っていきたいですね。