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ゼロから生まれたAR HMD
先駆者が語る、AR光学ディスプレイ開発の20年

2024年7月25日

ゼロの状態からAR HMD(AR頭部装着型ディスプレイ)の開発に取り組んできたソニーグループのDistinguished Engineerである武川洋は、人々の生活をより便利に、より楽しいものに変えるために挑戦を続けてきました。これまでのキャリアと、テクノロジーにかける想いを聞きました。

  • 武川 洋

    ソニーセミコンダクタソリューションズ
    株式会社
    Distinguished Engineer

メカトロニクスから光学の道へ

──現在の職務と専門分野について教えてください。

ナノフォトニクス開発の現場で、AR(Augmented Reality/拡張現実)・MR(Mixed Reality/複合現実)に関連する光学系技術の研究開発全般について、Distinguished Engineerの立場から技術的なアドバイスを行っています。

専門は、AR HMDの光学ディスプレイ技術です。
ARは、目の前の実世界にデジタルコンテンツを重畳し、現実世界を拡張する技術で、その実現のためのデバイスの一つが、装着したグラスやゴーグルに重畳映像を表示するAR HMDです。手がふさがらず、動きながら立体映像を見ることができる利点がある反面、現時点では装着負荷が大きく、本体サイズの小型化と、視野角や輝度を高次元で両立することは困難という課題を抱えています。非常に広範な応用が可能であることから、さまざまな企業が次世代コンピューティングプラットフォームとして開発にしのぎを削っています。

──AR HMDにはどのような技術が生かされているでしょうか。

目の前の実世界に、仮想物体があたかも存在しているかのように映像を重畳表示させるには、カメラが捉えた画像やセンサーのデータをもとに、実空間での頭の位置を推定するセンシング・認識技術や頭の位置から見た仮想物体をCGで描画する画像生成技術、そして、シースルーディスプレイで仮想物体を実世界に重ねて表示する合成表示技術が求められます。製品実現には多岐にわたる技術の統合が必要で、センシングから出力までのループをいかに高精度・低遅延・低演算量で処理できるかによってユーザーの体験価値が大きく変化します。

私が主に関わってきたのは、AR HMDのディスプレイパネル部分から見る人の瞳の手前まで光を届ける回折型ホログラム導光板の開発です。回折導光板方式は、厚さ1mm以下の透明なガラスや樹脂基板に小型広画角で文字や画像を映すことができ、原理的に低コストでの製造が可能で、高いポテンシャルがあります。一方で、効率性の観点で、他の方式と比べてより多くの光量が必要という課題を抱えていますが、一般ユーザー向けの眼鏡タイプのAR HMDを実現するのに現状最も適した光学技術だと考えています。

──入社前の専攻について教えてください。また入社後どのような製品に関わってきたのでしょうか。

学部では機械工学を、大学院では応用物理工学を専攻しました。ソニーに入社したのは、世の中にないものを送り出せることのやりがいと、ソニーのオーディオ製品への憧れがあったから。1987年に入社し、希望通り、オーディオ設計担当部門に配属され、その後、初代ミニディスク(MD)の商品開発に携わりました。オーディオ製品領域でのキャリアの前半はメカエンジニアとして設計を担当していましたが、光学ピックアップに興味を持ち、1年間留学させてもらって光学を学び、後半は次世代光学ピックアップの開発へとシフトしました。

その留学中に初めて学んだのがホログラム技術です。その時は何に使うかは具体的にイメージできていたわけではなかったのですが、面白い技術としてソニーの製品に取り入れたいと思っていました。そんな折、社内で新たなリーダー育成制度が始まり、未来のソニーの事業戦略を考えるプログラムに私も参画。そこでホログラムによるAR HMDを使った事業アイデアを提案し、運良く表彰されたことがきっかけとなり、2004年以降は一貫してAR HMDの商品開発、事業化に携わっています。

その後、2008年に世界初のホログラム導光板を使ったフルカラーAR HMDのプロトタイプを公開。2012年映画館向けの字幕グラス、2015年には開発者向けのSmartEyeglassを商品化。2019年に空間トラッキング機能を持つプロトタイプを公開し、2021年からは次世代AR光学モジュールの開発に取り組んでいます。

左)フルカラーホログラム導光板ARグラスのプロトタイプ(2008年)・(右)映画館向け字幕グラス  Entertainment Access Glasses (STW-C140GI)(2012年発売)

(左)フルカラーホログラム導光板ARグラスのプロトタイプ(2008年)
(右)映画館向け字幕グラス Entertainment Access Glasses (STW-C140GI)(2012年発売)

──学生時代に光学系を学ばなかったことは開発にどのような影響を及ぼしましたか。

研究開発の上で、ハンディキャップになっていた部分はあったかもしれませんが、今振り返れば、アドバンテージになった部分が大きいです。もし光学だけを専門としていたら、ホログラムによる回折型導光板という、誰もやっていないアプローチで挑戦する発想は生まれませんでした。もちろん基礎研究から取り組まなければいけませんが、「実用化には10年はかかる」と踏んでいたため、後から始めても追いつけると考えていました。

また、ARグラスには重量バランス、放熱、レンズ鏡筒精度など、メカの知見も非常に重要です。双方の知識を活かしたより良いものづくりを心がけています。

スマートフォン登場以上のイノベーションをもたらす可能性

──先日、ARの回折型導光板研究で「SID Special Recognition Award」を受賞されました。ソニーでは2016年以来の受賞です。どう受け止めていますか。

正直、受賞は寝耳に水でした。開発を始めたのが20年前の話なので、「まさか今頃」という気持ちです。ただ、AR界隈がかつてないほど盛り上がってきているタイミングで、これまでの働きを評価していただけたのは大変うれしく思います。この賞は産業にインパクトを与えた技術に対して贈られることが多いのですが、その点では市場の可能性を鑑みて前倒しで評価いただいたのかもしれません。

──AR HMDの未来像についてお考えを聞かせてください。

開発当初は、リアルタイムの翻訳やナビゲーション、ゲーム、検索などでのコンシューマ用途を想定していましたが、 当面は業務用途での採用が中心になると考えています。実際に倉庫でのピックアップ作業のナビゲーションや、習熟していない作業者への遠隔指示、トレーニングなどの用途で用いられています。今後は、特にAIによる認識、予測精度の向上にともなう人間の能力補完や増強や、利用環境に合わせたコンテンツの自動クリエイションも可能になる時代が来ると思います。また、ハードウェアもここ3〜4年ほどで、日常的に使える軽くて洗練されたものが出てくるのではないでしょうか。このようにコンテンツとハードウェアが進化することで、コンシューマ市場が立ち上がってくると考えています。

かつてスマートフォンが世に出てきた時に、カメラやICレコーダー、PDA(Personal Digital Assistant/携帯情報端末)などの機能がスマートフォンに統合されていきました。それと同じように、AR HMDが軽く小型化され、ユーザーインターフェースが改善されることで、パソコンやテレビ、スマートフォンに続く新たな選択肢になると考えています。 スマートフォンの登場と同等以上のイノベーションを起こせる可能性を秘めていると、ARに関わる研究者、技術者の多くが確信しています。

可能性を信じてくれたソニーで
今後求められる人材の育成に取り組みたい

──ソニーがAR領域で存在感を発揮していくためにはどうすれば良いと思いますか。

ARは裾野が広く、コンテンツのクリエイションからディストリビューション、ハードウェアではセンシングや半導体、ディスプレイ、オーディオ、インタラクションまで、さまざまな技術の統合によって成り立っています。開発には膨大なリソースが必要で、すべてをソニーがリードするというのは現実的ではありません。

そのなかで、ソニーがどの領域で、どの技術で勝負するかがまさに考えどころです。ソニーが持つ、コンテンツIPとコンテンツクリエイション、さらにデバイスの技術を活かし、1+1が3にも4にもなるビジネスで価値最大化を図っていくべきだと考えています。

──学会などをはじめ、多様な業種や専門家との関わりをお持ちですが、そういった方々との交流のなかでの気づきがあれば教えてください。

ARのコミュニティーにいる方たちは、競争相手である一方、一緒に業界を盛り上げる同胞でもあります。学会での彼らとの情報交換や研究成果のアピールがモチベーションにつながっています。また、最近はARを専門とする若手の研究者、技術者が増え、議論が活性化していることは心強いです。

そうした社外の方と交流するなかで実感するのは、働く場としてのソニーの魅力です。最近も優秀なエンジニアがソニーに入社したのですが、入社の決め手は、ゲームやエンターテインメントなど、AR技術の応用先となり得る事業を幅広く展開していることでした。最近では、グループ横串でARの技術やユースケース、ヒューマンファクターなどを考える勉強会を立ち上げたのですが、グループの異なる専門性を持つ仲間とのコミュケーションが、新しい発想の源泉になる。ダイバーシティがチャンスを生み出してくれると考えています。

──今後の目標について教えてください。

過去を振り返ってみますと、研究のリソースが充分に確保できず崖っぷちに追い込まれたことも1度や2度ではありませんでした(笑)。そんななかでも、 研究開発の芽を残しておいてもらえたことが今につながっていると思いますし、ソニーがそういう職場風土であったことに感謝しています。

今後もAR HMDの開発の先頭に立ちたい気持ちももちろんありますが、「今までやってきたことを会社にどう残していくか」も意識しています。グループ内には、一つ一つの技術のエキスパートがたくさんいますが、ARという切り口で全体をまとめた時に、どの技術をどう組み合わせるか、全体をデザインできる人が必要です。ソニーのアセットを統合できる人材の育成が私のこれからの重要なミッションになると思います。また、AR技術によって、人々の生活をより便利に、より楽しいものに変えるために、社内に留まらず、AR業界全体に引き続き貢献していきたいと考えています。

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