「ラジオをやろう」。これが、社長の井深が出した答えであった。
「トランジスタを作るからには、広く誰もが買える大衆製品を狙わなくては意味がない。それは、ラジオだ。難しくても最初からラジオを狙おうじゃないか」
まだ、アメリカでも補聴器くらいにしか使えない、低い周波数のトランジスタしか作られていないのだ。これは、大胆な発想だった。しかし、井深は強気だ。
「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」。この言葉で、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の技術者たちの挑戦が始まった。
技術者から見れば、挑戦する相手が難しければ難しいほど、張り合いがあるというものだ。しかし、東通工の中でも一部には、果たしてできるかどうか分からないようなトランジスタを、社運をかけてまでやる必要があるのかという先行きを危ぶむ声があった。それは、外部の人たちの大部分も、やはり同じように感じていたに違いない。東通工のような小さい会社が、いまだアメリカでもできないトランジスタラジオをやるなんてことは、無謀な冒険であるという意見が圧倒的に多かった。NHKの島も、そう思っていた一人だ。
「今度、うちでトランジスタをやるよ。それもラジオを作ることにした」。井深が少し誇らしげに言った。
「ラジオなんて大丈夫か?アメリカだって、お金に糸目をつけない国防用にしか使われていないじゃないか。トランジスタのような高価なものを使って民生用の機械を作ろうたって、誰も買いやしないよ」。古くからの友人への忠告のつもりで島は反論した。
「そうじゃないよ。確かにトランジスタの製造の歩留まりというのは、今のところは、アメリカでも、せいぜい5%あるかないかだ。だから、皆はトランジスタは商売にならないと言っている。僕は、歩留まりが悪いから面白いと思うんだ。歩留まりが悪いというのなら、良くすればいいんだろう」。井深はムキになって答えた。正論である。島は昔から、こうした井深の敢闘精神ともいえる積極的な姿勢を好ましく思っていた。
島は理解してくれた。しかし、どうしても理解してくれない相手もある。通産省だ。井深は再度、通産省に足を運んだ。「実は、当社ではWE(ウエスタンエレクトリック)社から製造特許使用者としての許可をもらいました。ついては、通産省のほうでも何とかこの件に関して認可をお願いいたします」と言う井深の言葉に、通産省は「勝手にサインしてくるなど、もってのほかだ。けしからん」と、カンカンである。
仕方がない。当面は通産省の出方を見ながら、自分たちでできることをやるしかないというので、社内ではすぐに精鋭たちが集められ、トランジスタ開発部隊が編成された。リーダーには、テープレコーダーの製造部長をやっていた岩間和夫が志願した。岩間は以前、井深からアメリカの『フォーチュン』誌に載ったトランジスタの記事を見せられた際、一晩読んで、「これなら、できないことはないな」と軽い気持ちでいた。それで、井深が「誰にやらせようか」と言った時にも、「私がやりたいです」と自ら買って出たのだ。そして、岩間と一緒にトランジスタに取り組むため、社内のいろいろな職場から腕に自信のある人間が集められた。
とにかく、ラジオをやろうという前に、トランジスタそのものを作ることが先決である。しかし、東通工には、その製造ノウハウどころか、ほとんど資料と言えるものがない。唯一の拠り所は、専務の盛田がアメリカから持ち帰ってきた、トランジスタのバイブルともいえる『トランジスタ・テクノロジー』という本だけであった。岩間たちは、この本を手がかりに勉強を始めていった。
そうして1953年も暮れかけようという頃、通産省の電子工業関係部門の大幅な人事異動が行われ、これが、東通工に幸いした。急転直下、トランジスタの認可が下りそうな気配となったため、1954年、年が明けるとすぐに、岩間はトランジスタ研究のためアメリカへと旅立って行った。遅れて1月末には、井深もWE社のトランジスタ工場を視察するため、再度アメリカに向かった。
これで、いよいよ本格的にトランジスタに取り組む態勢が整った。
岩間がトランジスタの研究のためWE社へ行ったのは、35歳の時である。仕事に脂の乗り始めた頃だ。そういうことだけではないが、アメリカに渡ってからの岩間の働きぶりはすさまじかった。岩間が持っているトランジスタの知識は、わずかに『トランジスタ・テクノロジー』を読むことによって、製造にまつわる基礎的な部分を身に着けたという程度のものでしかない。
とにもかくにも、ここアメリカで、できる限りの情報を集めて帰らなくてはいけない。WE社からは、製造装置の仕様書などの資料はもらえない。しかし、工場の中は割と自由に見せてくれた。岩間は、工場見学の際に、これはと思われる装置を前にしては、怪しげな英語を駆使して質問して回り、その印象なり答えてもらったことなどを報告書にまとめて、東京に書き送った。とはいっても、その場で装置の図面をノートに取ることはゆるされない。その分、全部が全部正確とは言えないが、ホテルに帰ってから、一所懸命見たこと聞いたことを思い出しながら、スケッチにしたり、レポートにして書きに書いた。最初がレポート用紙に9枚……2月19日が8枚、2月21日9枚……4月7日5枚、4月9日5枚、4月13日8枚と、毎日ではないが、それでも驚くほどの量だ。
東京では、定期便のように送られてくる岩間からの手紙と『トランジスタ・テクノロジー』を参考にして、岩間が帰って来るまでにトランジスタを作っておこうじゃないかと話がまとまった。
まず、やらなくてはならないのが、トランジスタ製造のための工作機械を作ることだ。その当時、半導体の製造設備といっても既製品などあるわけがない。しかも、いくら『トランジスタ・テクノロジー』を読んでも、製造装置の図面など載っていない。何もかも、自分たちで一つひとつ図面を引いて作り出していくほかはないのである。その上、東通工の機械作業場には小型の加工装置が数種類ある程度で、これではとても社内で作るのは無理である。そこで、社外の協力工場に加工を依頼し、それこそゼロから出発して、水素でゲルマニウムを還元する酸化ゲルマニウム還元装置、それの純度を上げるためのゾーン精製装置、切断機(スライシングマシン)と、一連の製造装置を作り上げていった。
初めて東通工のトランジスタが動作したのは、岩間がアメリカから帰って来る1週間前だった。ベル研究所のショックレー博士たち(ウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディン、ウォルター・ブラッテンの3人が、1947年にトランジスタを発明)が最初に作ったのと同じ型の、ポイントコンタクト(点接触)型のトランジスタである。測定に使う装置は手製のものである。
電流計の針が振れた時の皆の喜びは、大変なものであった。しかし、「こんな早くにトランジスタができるとは……」。誰しもが持った感慨であった。続いて、すぐにジャンクション(接合)型ができたが、帰国した岩間も、初めは半信半疑であった。ゲルマニウム結晶を見ても、「これが、本当にゲルマニウムか?」と、どうもピンと来ないようだ。正直な話、発振器のメーターが振れるのを見て、「ああ、これならどうやらトランジスタらしいな」と、やっと認識できたようであった。
それにしても、大した決断であった。井深や盛田が「トランジスタをやろう」と決意した時には、東通工はテープレコーダーでは多少名前は知られていたが、会社設立から6年しか経っておらず、資本金も1億円に満たない小さな会社なのだ。果たして、ものになるかどうかも分からないトランジスタに、東通工は当時の会社規模としては、思いも及ばないほどのお金と人手をかけてスタートしたのだ。
とにかく、お金がかかった。経理の担当部長が研究・開発費を工面するため、銀行に説明に行くことになったが、トランジスタをどう説明して良いか分からない。盛田は、困ったようすの経理部長を見て、アメリカの雑誌など方々から集めてきた文献をドサッと持ってきてくれた。「これを先方に見せて、説明してこい」というわけだ。仕方なく、それを持って銀行に行ったが、これには先方の支店長も頭を抱えてしまった。支店長としては、貸さないで、東通工の新事業の機会をなくすようなことはしたくない。しかし、いくらアメリカの文献をたくさん持って来られても、トランジスタとはいかなるものか分からないうちは、貸してもよいという理由が見当たらないのだ。結局、銀行の本店の審査部へと、この件は回されることになった。
今度は、上司の太刀川が同行し、説明のため審査部まで出向いて行った。
「トランジスタというのは、真空管の代用品でしょう」。明らかに軽蔑したような口振りで審査部の担当者は言う。“代用品”というのは、戦後物資が不足していた折、本物に代わるものとして出てきた類似品のことを言う。太刀川たちは何度も「真空管とは違うものだ。代用品ではない」と説明した。それでも、分かってもらえない。とうとう、井深を引っ張ってきて説明させた。井深の説明は、大変オーソドックスなものだった。
「物が動くことを動作すると言う。動くということには摩擦が付きもの。摩擦が起こると物質は減る。この減るということが、故障の原因になる。トランジスタは、物が動いて動作するのではない。分子が変わることによって真空管と同じ働きをするものだ。そのため、トランジスタには故障がない。真空管に比べて数段も小さく、構造が簡単な上、頑丈である。しかるに、真空管とは全然別のものである」。そういったことを、延々3時間近く話した。こうして審査部の人たちを口説きに口説いて、やっと納得してもらうことができた。
岩間がアメリカから帰って来るのと前後して、ジャンクション・トランジスタができた。ここまでできれば、基礎研究の段階を抜け、いよいよラジオ用のトランジスタが目標となる。ラジオとなると、トランジスタは途端に難しくなる。もっと高い周波数を扱えるトランジスタ、つまりグロン(成長)型のものをめざさなくてはならないのだ。そのため、これまでは半自動であったり、人の勘に頼っていたゲルマニウム結晶の引き上げ、表面研摩といった操作を、より正確にするため、それぞれの装置の製造に取りかかっていった。
話は少々前後するが、1950年に東通工が初めて発売したテープレコーダーG型は、消去ヘッドの効率が悪く、性能向上の障害となっていた。このため、井深たちは高周波特性の良い磁気材料であるフェライトをヘッド材料に応用することに着目、国内でいち早くフェライトの研究に専念していた東北大学の岡村研究室との共同研究を1951年から始めた。これにより、東通工では盛田正明(もりた まさあき)を岡村俊彦教授の元に派遣させるとともに、社内でも岩間を中心にテープレコーダー用のフェライトヘッドの開発を行っていた。
東北大学の岡村研究室が行っていたフェライトの研究には、東通工ともう1社が資金援助していた。そして1953年になって、実用になりそうなフェライトを岡村教授が発見し、これが特許となった。ところが心臓病を患う岡村教授は、とても企業と特許契約の交渉などできそうにない。そこで、岡村教授の研究をサポートしていた高崎晃昇が企業との窓口になったのである。高崎はまず、東通工よりも資金を多く出してくれていた企業に行き、特許契約の話をしたがなかなか返事が来なかった。
そして、高崎は次に東通工を訪れた。井深と盛田(昭夫)から20〜30分、いろいろなことを質問された。「随分特許の料率というのは高いものですね」。最後に井深からそう言われて、高崎は、金属材料研究所の主だった特許の例をとって、材料というのはセットに比べ料率が高いことを説明した。「分かりました。それでは当社の研究部長たちに会ってください」。井深が言った研究部長たちというのは、実際にこの特許を使って仕事をする岩間たちであった。高崎は、今度はこれらの人たちから延々3時間にわたってあれこれと、しつこい質問攻めにあってしまった。「この会社は、すごくうるさい所だなあ」と、高崎もさすがに閉口してしまった。質問も出尽くした頃を見計らって、それまで席を外していた井深が入ってきて、「どうだった?」と岩間たちに聞いた。「すべて、分かりました」という返事だ。「それでは高崎さん、契約しましょう」。井深は、いとも簡単に原案に判を押して契約すると言う。高崎は初めに訪ねたメーカーの応対と全然違うのにびっくりしてしまった。
高崎が東通工を訪れてから一ヶ月が経った7月の半ばに、盛田(昭夫)が仙台にやって来た。盛田は高崎に、「契約はしたが、作る人がいない。どうだろう、高崎さんやってくれませんか」と言う。「東通工の将来を考えると、どうしても材料工場を持っていたい。そこで、日本の中であればどこでもいいから工場を作ってくれませんか」という盛田の話に、高崎の心が動かされた。しかし、「自分のような者では期待はずれではなかろうか、そんなことで、あの会社の人たちに迷惑がかかってはいけない」。そんなことを考えて返事を保留したのだった。
8月に入って、今度は井深から「ぜひ会いたい」と電話がかかってきた。以前から、「この会社は面白そうだ」と思っていたため、井深からの重ねての説得を受け、高崎は腹を決めて引き受けることにした。
当時宮城県では、戦災で焼け、しかも消費都市である仙台市と、漁港である塩釜市を結ぶ地域を工場地帯(仙塩工業地帯)にしようという一大構想を打ち出し、工場誘致を積極的に行っていた。これは東通工としても好都合であった。何といっても、フェライトやテープの共同研究で綿密な連携を保っていた東北大学と地理的にも近い。しかも、テープレコーダーの増産により本社工場のある品川・御殿山の敷地が手狭になったことなどもあって、仙台への進出を決めたのであった。
高崎たちは、さっそく設立の準備に取りかかった。1954年2月に、当時東通工の販売会社であった仙台支店の一隅に仮の事務所が設けられた。女子社員1名を含み、工場長以下たった6名での出発であった。その間、宮城県工場誘致条例の第1号の適用を受け、多賀城市に1万7,000平方メートルの用地と、旧海軍工廠(こうしょう)跡の医務室を、5年間の無償貸与ということで借り受けることが決まり、改修工事を開始したのであった。
5月1日、バラックながら改修工事も完了し、工場としての第一歩を踏み出すことになった。総勢27名。出勤1日目は、まず草むしり、大掃除、ガラス拭き、荷物の荷ほどきと、全くゼロからのスタートである。次に全員がしなくてはならなかったのが、長靴(ゴム長)の調達。何しろこの工場、四方を田んぼと畑に囲まれている。道といってもあぜ道と変わりない。また夜は夜で、鼻をつままれても分からない暗闇である。足を一歩踏み外せば、田んぼや小川にドボンというわけだ。仙台工場が実際に稼働し始めた6月、工場に明るく蛍光灯が灯されたのを見て、土地の人々は“何と明るいのだろう”と目を見張ったくらいの田舎だったのである。
こうして、岩間たちがラジオ用トランジスタの完成に血道を上げている頃、遠く東北の地に、東通工の看板が掲げられたのだった。