「これは、ものになるだろうか」
「いや、こんなものでいけるとは、とうてい思えませんね」
先ほどから井深と岩間(和夫)がアメリカの雑誌を見ては、何やら話し込んでいる。2人が見ていたのは、アメリカのベル研究所がトランジスタを発明したことを伝える記事だ。これには、ポイントコンタクト(点接触)型トランジスタの写真に加えて『ゲルマニウムの結晶片に2本のタングステンの針を立てて……』という説明が載っている。
「将来性はないな」。この記事を読んで、井深はすぐにそう思った。というのも、井深が無線を始めたばかりの頃使っていた、鉱石検波器のことが脳裏に浮かんだからだ。この鉱石検波器は、方亜鉛鉱という結晶に針を立てて無線電波を検波(放送電波から信号成分を取り出す)する装置で、これに受話器をつなげば無線を聴くことができるというもの。確かにトランジスタとよく似ている。しかしこちらは、そんなに高級な機械とは言い難い。クシャミをしたり、ちょっと体を動かしただけで針が動いてしまう。そうすると、また聴こえる所まで針を動かして探していくのだが、これがえらい苦労である。井深はそれを連想して、こんなものは大して役に立たないだろうと思ったのだ。
1952年3月、井深は3カ月の予定で、海外視察調査のため渡米することになった。日本では、テープレコーダーの売れ先が学校を中心にした教育関係に集中しており、これ以外にもっと広い売れ口があるのではないだろうか。アメリカの人たちはテープレコーダーをどういうふうに使っているのだろう。できることなら、作っている所を見て製造過程も学んできたいというのが、井深の渡米の目的であった。
羽田で家族や会社の人たちに見送られて、ノースウエストの飛行機に乗り込んだ井深は、少なからず緊張していた。初めての海外旅行である。その上、井深は英語に自信がなかった。
それでも、アンカレッジからシアトルで乗り継ぎ、何とか無事ニューヨークに着いた。
やはり、アメリカはすごい。何しろ夜中までこうこうと電気がついている。街に出れば車があふれている。
「これは大変な国だ!」
見るもの聞くものすべてが驚くことばかりである。車好きの井深は、中古車販売店の店頭に並べられた車を見ては、ため息をついていた。500ドル、800ドルもするのではとても手が出ない。それでなくても、外貨の持ち出しが厳しく制限されていて、1日当たり10ドルか20ドルしか使えず、タクシーにも下手に乗れない状態なのだ。
ニューヨークに着いて、まず井深は、かつて貿易会社に勤務していた山田志道(やまだしどう)に会った。
山田は貿易会社をやめた後、戦前・戦中を通して株の仲買人をやっていて信望も厚く、英語はむろんのことアメリカの事情に詳しい。井深にとっては、打って付けの案内人であった。あちこちと引き回してもらって見物したり、「外貨持ち出しの制限があるので、ホテルに泊まるのがもったいない」と言えば、下宿のような所を紹介してくれたり、「あそこの工場が見たい」と言えば、その労をとってくれたりと、井深が滞在している間中、山田には世話になりっ放しだ。
そんなある日、井深にアメリカの友人が訪ねてきて、「今度、ウエスタン・エレクトリック社(以下、WE社)がトランジスタの特許を望む会社にその特許を公開しても良いと言っているが、興味はないか」という話をした。トランジスタは、1948年、ベル研究所の研究者のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3人によって発明された。このトランジスタ製造特許を、ベル研究所の親会社であるWE社が持っている。特許使用料を支払えば、その特許を公開してくれるという情報だった。
ところで、その頃井深は、アメリカに来て以来、忙しい毎日を過ごしているにもかかわらず眠れない夜が続いていた。そんな折、いつも井深が思うのは遠く日本にいる仲間たちや、会社の事であった。
東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)はその頃、テープの製造をするためにいろいろな分野から人を集めてきたため、社員数が急激に増えていた。テープの仕事に一応目鼻が立った今、何とかしてこれらの人たちを有効に生かすことはできないか、興味を持って活躍できる仕事はないものか……井深が考えるのは、いつもそのことだ。
突然ひらめきがあった。「トランジスタをやってみよう。これには、技術屋がたくさんいるに違いない。研究者も必要になるだろう。それに、あの連中も新しいことに首を突っ込むのが大好きだ。これは打って付けじゃないか」
トランジスタなどというものは、今回の渡米の目的には全然入っていなかった。井深も、会社のこのような事情でもなければ、WE社の話になど耳を貸さなかったかもしれない。それに、特許料が2万5000ドル(約900万円)というのも、東通工にとっては、大き過ぎる金額である。しかし、今や、やってみるだけのことはありそうだという気持ちのほうが強くなってきていた。トランジスタも発明されてから4年が経ち、当初、井深が考えていたような鉱石検波器とは違うということも分かっていたし、何よりもトランジスタ自体も初期の点接触型から接合型へと進歩を見せていた。
さっそく、山田に頼み込んだ。「トランジスタの話を、よく聞いて帰りたいんだ」。山田は、WE社の特許を担当しているマネージャーに会えるようにと、何度もコンタクトを取ってくれた。しかし、なかなか面会の約束が取れない。心残りではあったが、事後のことを山田に託し、井深は帰国の途に就いた。さて、この時の井深のアメリカ土産は、ゲルマニウム・ダイオードと、当時日本にはまだなかった、ビニールのテーブルクロスであった。
帰国後すぐに井深は、この決断を盛田に伝え、東通工でやれるかどうか相談をした。「やるだけのことは、ありそうですね」と盛田も賛成してくれた。
次に社内のコンセンサスも得られると、井深はアクションを起こし、通産省にトランジスタ製造の許可を求めに行った。「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」と通産省の返事はつれなかった。町工場に毛のはえた程度の東通工なんかで、難しいトランジスタができるわけがない、そんなことで高額な特許料を支払い、貴重な日本の外貨を使われてはたまらないと、まったく問題にもされない。
その頃、日本でもトランジスタの開発を始める会社がいくつか現れていた。いずれも日本を代表する大会社である。これらの会社の方法は、アンブレラ契約といって、アメリカのRCA社からすべての技術を供与してもらう代わりに、すべての商品に対して特許権使用料を支払わなくてはいけないというものだ。これら日本を代表する会社でさえこうした契約でやろうとしているのに、東通工がWE社から特許権だけを買い取ろうというのは、いかにも無謀なことというのが、通産省の見解であった。
ところで、井深の渡米の目的であるテープレコーダーの市場調査のほうであるが、これに関しては、アメリカでも民生用としては日本ほどの普及を見せていないというのが結論であった。つまり、日本では裁判所から放送局といった業務目的から、学校の学習用に使われ、なおかつ一般家庭にも普及しようかという時期に来ているのに対して、アメリカではいまだ講演の速記とか報道機関のメモ用として使われている程度に過ぎなかったのである。
実際、日本ほど教育におけるテープレコーダー活用の浸透率が高い国は、世界中見回してもどこにもない。これは、学校に販路を開拓していった東通工の大きな功績であった。学校の授業での活用から始まって、各種のけいこ事に使われ、今日のようにテープレコーダーが普及していったことを考えれば、その市民生活に及ぼした影響の大きさは、計り知れないものがある。
トランジスタの特許取得のための努力は、井深から後のことを託された山田の骨折りによって、着々と進められていた。
山田は、井深がニューヨークを離れた後もたびたびとWE社に通い、行くたびに"東通工は、こういう会社である"と説明してくれた。また、ある時は、山田の得意のスケッチを生かしてオフィスで働く秘書の女性を描いてやったりして、すっかり先方の人たちと仲良くなっていた。そうしたWE社との交渉の詳細を、山田は詳しく報告してきてくれた。
山田自身とは、さほど関わりもない東通工のために、なぜこれほどまでに面倒を見てくれるのか……永くニューヨークで株の仲買人をやっていた山田の直観によほど東通工という会社は響くものがあったのか、山田は家庭にあっても夫人のまきゑに、「まきゑ、見ていてごらん。あの東通工という会社は、名もない小さな会社だが、きっと今に大きな会社になるよ」と言うのが口癖だった。
そうした山田の努力が実を結ぶ日が来た。その実は、アメリカから井深の所に届いた一通のエアメールが運んできた。『あなたの会社に特許の使用を認める用意がある。代表者が来てサインをしなさい』。WE社では、東通工がどこの会社とも技術提携をせず、またアドバイスも受けずに独力でテープをこしらえたことに非常に感心し、そういう会社であれば、トランジスタの特許を使わせても大丈夫であろうと判断したらしい。
1953年8月、3カ月の予定で欧米の業界を視察することになっていた盛田が、このWE社との契約を任されることになった。盛田にとっても、初めての海外である。今回も、英語をほとんど話せない盛田のために、ニューヨークに着いてから山田がずっと連れて歩いてくれている。「どうして、こんな国と戦争なんかしたんだろう」というのが、盛田の率直なアメリカの印象であった。日本と全然スケールが違う。何を見ても圧倒される。盛田は、少なからず自信を失いかけていた。
いよいよ明日、WE社に行くということになった。
盛田は、「東通工といっても、どこの馬の骨ともしれない日本人が来たと言って、WE社は相手にしてくれないんじゃないだろうか」と、いつになく弱気になっていた。WE社に行って、東通工が独力でテープやテープレコーダーを完成させたという事実を、データで示して説明する予定になっているのだ。しかも相手は、東通工とは比較のしようもないくらい大きなWE社である。盛田が不安になるのも仕方のないことであった。
それでも、山田が付いて行ってくれるという安心感で盛田は気を取り直し、WE社に行く決心がついた。
東通工に対するWE社の返事は、「OK」だった。しかし、日本では、まだ通産省の認可が下りていない。そこで取りあえず、許可が下り次第正式に契約することにして、仮調印を済ませた。その折、WE社の技術者たちは「トランジスタというものは、非常におもしろいものだ。しかし、今の段階では可聴周波数帯域(ラジオの放送電波は、これよりもずっと高い周波数)にしか使えない。それにはヒアリングエイド(補聴器)を作ったらよい。日本に帰ったら、ぜひとも補聴器を作れ」としきりに勧めてくれる。盛田は「どう考えても補聴器では大きなマーケットになりそうもないな」と思いつつ、「はあ、はあ」と聞いておいた。
東通工がWE社と結んだ契約は、ノウハウ契約とは違う。そのため、盛田は調印を済ませると日本に帰ってから役立つようにと、トランジスタに関わるいろいろな資料を集めて回った。とにかく、これで渡米の目的を無事果たした盛田は、次なる視察地ヨーロッパへ向けて旅立って行った。
最初に行ったのはドイツだ。ドイツは日本と同じく戦争には負けたけれど、素晴らしい技術力を持っているし、その技術力には長い伝統がある。盛田はアメリカで感じたような劣等感を、ここドイツでも感じていた。
「果たして、アメリカやドイツといった国と同じように、東通工が世界中にマーケットを広げていけるものだろうか」。あれほど、いつかは東通工製品を世界のマーケットに乗せるんだと考えていた盛田も、次第に悲観的になってしまっていた。
そんな気持ちを抱えたまま、ドイツから汽車に乗りオランダに向かった。ここには、世界的な大企業フィリップスの本拠地がある。この地を訪れて、盛田はひと息ついた気がした。ご存じのように、オランダは農業国だ。町へ入ると、皆自転車に乗っている。「何だか、日本に似た国だな」と、郷愁さえ覚えた。この国には、ほとんどと言ってよいくらい工業というものがない。何しろヨーロッパ中で食べる卵に、オランダという印が付いているくらいの農業立国である。盛田にしても、フィリップスがいかに世界中に大きな力を持っているか知らないわけではない。そのフィリップスが、この小さな国にあるのだ。
盛田は、ヨーロッパに来てからというもの、日本は何と広い国であろうかと思っていた。確かにアメリカに比べれば、日本は小国だ。しかし、ヨーロッパでは、ひとつの国の首府から、次の国の首府まで飛行機に乗れば、1時間で行ってしまう。オランダであれば、汽車で4時間走ると、国境から隣の国に突き抜けてしまうのだ。 それほど狭い国土のオランダの、しかも、農業国の片田舎にあるフィリップスという会社が、世界のエレクトロニクス産業において素晴しい力を発揮している。アイントホーヘンという町は、ドクター・フィリップスが出てくるまでは、本当に片田舎であった。何ら工業的なバックグラウンドのないこの土地で、ドクター・フィリップスはフィリップス王国を築き上げたのだ。
「ドクター・フィリップスにできたことが、我われにできないはずはない。自分たちにも、チャンスがあるはずだ」。盛田はここに来て急に勇気が湧いてきた。そして、オランダから井深に手紙を出した。
『オランダを見て非常に勇気が湧いた。私たちにも、我が社の製品を世界中に売り広めるチャンスがあるという決心、決意を持つに至った』。そう、書いて出した。
3カ月の旅行を終え、日本に帰った盛田は、さっそくWE社とのやり取りを井深に話した。
「トランジスタを使って何かやりましょう。トランジスタができれば、我が社のチャンスとなるはずです。WE社では、補聴器をやれと言っているけれど、どうでしょう……」
井深も補聴器には否定的であった。