「東京通信工業(ソニーの前身。以下、東通工)という会社があります。ここには若くて優秀な人材が大勢いて、しかもしゃべるとそれが記録され、すぐに聴くことができるというおもしろい機械の研究をしています。この会社は、現在は名もなく小さな会社ですが、将来きっと伸びるに違いありません」
倉橋正雄(くらはし まさお)は、田島道治(たじま みちじ。東通工の初代社長である前田多門の親友で、後にソニーの初代会長)から東通工の話を聞き、この会社に少なからず興味を覚えた。
倉橋は、尾張徳川家の財産管理をしている「八雲産業」の社員である。尾張の殿様とはいえ、戦後の暮らしは楽ではない。財産の売り食いのようなタケノコ生活が続いていた。いつまでもこんなことではいけない、何とか財産を効率良く運用して、徳川家のために役立てたいと、倉橋は前々から思っていた。このことを、当時同じ八雲産業の相談役をしていた田島に相談した折に出たのが、先の東通工の話であった。
ちょうどその頃(1950年)、東通工は資本金を360万円から、1,000万円にしようとしている時であり、田島は自分も相談役として籍を置いている東通工の将来性を見て、倉橋にその増資の話に応じてみてはどうかと勧めたのだ。
取りあえず50円株で1万株、50万円の出資をすることに決めた。「出資するからには、東通工がどんな会社か見ていらっしゃい」という田島の言葉で、倉橋は品川・御殿山のバラック工場に井深と盛田を訪ねて行った。
出資の話も一段落し、G型テープレコーダーの試作機や、その他の東通工製品を見せてもらった後、雑談に移った。その時倉橋は、この人たちなら何か良い知恵を貸してくれるのではないかという期待から、「徳川家のためになるような、新しい仕事を何かやりたいと思っているのです」と率直に心中を明かしてみた。その時、倉橋の頭の中は、先ほど見せてもらったばかりのG型のことでいっぱいだった。『何とか、あのテープレコーダーを八雲で売ることはできないか……』。そして会社に戻ってからも、思うのはG型のことばかりだ。
一度ならず二度三度と、東通工に足を運んでは話し、「ぜひ、これを売らせてください」と頼んでもみた。しかし、東通工ではなかなか「うん」と言ってくれない。井深たちにしてみれば、増資したばかりといっても、そんなにお金に余裕があるわけではない。倉橋に本当に支払い能力があるのかどうか不安である。それを察した倉橋は「尾張徳川家は、名古屋に代々の財宝を集めた美術館を持っています。ここには、国宝として素晴らしい物がたくさん置いてあります。これを担保にすれば、1億や2億の金はすぐにできます」と大きく出てみた。
倉橋には、それらの美術品を担保にする気などさらさらない。しかし、この言葉で井深たちの不安が拭い去られれば、それに越したことはないのだ。「この機械が完成した時には、どうぞ50台当社で買わせてください」という倉橋の願いがかなって、1台12万円で、50台やっと買うことができた。600万円の小切手を切って、すぐに50台のテープレコーダーを、東京・目白の徳川家の倉庫に運び込んだ倉橋は大喜びであった。
翌日から、徳川侯の紹介状を携えて倉橋はあっちこっちとG型を見せに回った。さすが、徳川家で紹介してくれただけのことがあり、立派な所ばかりだ。売値は16万8,000円。誰も「高い」と言う人はいない。
「これは、見たこともない面白い機械ですなあ」と口々に、感心の言葉を語ってくれる。しかし、売れない。倉橋が足を棒にして回っても、やはり1台として売れなかった。
ところで、倉橋同様、増資の話で東通工を訪れた人間がもう1人いた。東京芸術大学の学生、大賀典雄(おおが のりお)だ。
大賀は、音楽学校の生徒でありながら、メカには結構うるさい。海外のいろいろな文献をよく読んでおり、外国製のテープレコーダーの事情をよく知っていた。それで、メカはどうなっているだの、アンプはどうだ、テープの性能はどの程度かと、いろいろと質問をした上、テープレコーダーはこうあるべきではないかという話までして帰った。この時には、井深のほうに時間がなく、ちょっと話をした程度であった。
大賀は「音楽学校にはテープレコーダーは必需品である。バレリーナが鏡を見てレッスンをするように、音楽家は鏡の代わりにテープレコーダーを使って練習をしなくては駄目です」と、しきりに説いて回っていた。しかし、当時の貨幣価値からいくと、テープレコーダーは高額商品である。そうやすやすと買ってもらえるようなものではない。それでも、やっと買っても良いという許可が下りた。
G型は、当時のテープレコーダーのレベルからすれば、そこそこの性能を示していた。しかしそれはスピーチや普通に人がしゃべる言葉を録音するのなら差し支えないという程度のものだ。大賀たちのような音楽を志す人間にとって、G型の"音"では不満足な部分が多い。一番致命的なのは、ピアノの音のようなトランジェントといった立ち上がりのある音を録ると、皆かすれてしまうということだ。これでは、音楽的なものを録るのに限界がある。そこで、大賀たちは協議し、東京芸術大学で使う際に改良すべき箇所を挙げて、仕様書を作り、倉橋を通じて東通工に提出しておいた。周波数特性はこのくらいなくてはいけない、特にワウ・アンド・フラッター(速度の変動。大きな周期のものをワウ、小さな周期のものをフラッターと呼ぶ)についてはこれ以下でなくては使い物にならない、といったようなことを書いておいた。
この仕様書の打ち合わせのために、大賀は再度、東通工を訪れた。この時には井深ともゆっくり話をする機会が持て、音を録音する際の必要条件だとか、ワウという音の触れをより少なくするためにはインピーダンスローラーを付けてもらわなくては困るといった要求を、岩間(和夫)、樋口(晃)を加えて十分に話し合うことができた。
井深は、音楽学校からかなり面倒な注文が来て、その学生が会いに来ているというので、大賀に会ったのだが、見ると体重70kgはあろうかという音楽家らしからぬ大男。しかし所せんは"音楽学校の学生さん"だろうと、井深は、専門用語でまくしたてていい加減にあしらうつもりでいたところ、反対にすっかりかみつかれてしまった。「こりゃあ、テープレコーダーの知識は玄人(くろうと)以上の本物だ」。井深は、この世話好きで、親分肌の大賀が気に入ってしまった。それ以来、大賀は誰が任命した訳でもないのに、無給の監督官として東通工に出入りするようになっていった。
盛田や倉橋は、これまでの販売方法を省みた。いくら井深や盛田らが技術的興味を持って、新しいものと思って開発しても、お客さまにとって使い方の分からないものは、いくら良いものでも買ってくれないということが分かってきた。そこで、需要を喚起するためにはどうすべきかと、使い方の勉強を始めた。たまたま、アメリカのテープレコーダーに付いてきたパンフレットで『テープレコーダーの999の使い方』という小冊子が手に入った。これは簡単なパンフレットであったため、詳しくは書いてないが、アルファベット順にAなら航空機、Bなら美容院というように、いろいろな使い方が書いてある。盛田と倉橋は、連日これで研究し、テープレコーダーは極めて広い社会層で使えるという確証をつかんでいった。
さて、それと並行して機械の改良もなされていった。G型は一般商品としては考えられないくらい大きく重い上に、値段も高い。井深、盛田たちが集まって、テープレコーダーを学校や一般家庭に普及させるには、どこを改良していくべきか相談を始めた。「G型のように、あんな大きなものではいかん。もっとポータブルなものを作れば必ず売れるよ」。井深のこの言葉で、木原(信敏)はその晩家に帰って徹夜で考えた。このレバーをこうすればこうなると、考え出したら眠れなくなった。翌日、会社に着くとすぐ図面を引き、それを基に、不完全ながら試作機を2台作った。それを井深に見せにいくと、「完成しないうちは、帰ってきちゃいかん」と厳命され、木原たちはこの未完のテープレコーダーを抱えて、熱海にカン詰にされてしまった。会社にいれば電話もかかってくる、人と応対もしなくちゃいけない。そんな雑事から解放して、仕事に専念させてやりたいという気持ちからの言葉であった。この時の、"熱海のカン詰"ででき上がったのが、本格的普及型テープレコーダーのH型であった。
完成が待たれた普及型の1号機、H型は1951年3月に発売の運びとなった。重さ13kg、木製のトランク型のケースに入っている、なかなかしゃれたデザインだ。それもそのはず、このH型、東通工としては初めて、社外の工業デザイナーに依頼した作品である。
H型の完成により、学校への需要が増していった。これには、倉橋たちのテープレコーダーの使い方の普及・啓蒙活動が功を奏していったことも一因であった。
その頃、日本では進駐軍の政策の一環として、オーディオ・ビジュアル・エデュケーションということが盛んに言われるようになっていた。オーディオはNHKラジオの教育放送で、ビジュアルのほうは映写機を全国の教育施設に貸し出して、戦前の観念教育から視聴覚教育に切り替えていこうという試みだった。
その波に東通工も乗ることにした。ラジオの放送は不特定多数の人を対象に、一定の時間流される。これを、音の缶詰にして学校のカリキュラムに合わせれば、本当の学校教育になる。ちょうどタイミングよく、全国で放送教育研究大会が開かれていた。これは文部省とNHKが中心になって、全国の先生方により良い学校放送の指導をしていこうという趣旨で開かれたもので、東通工では、この大会にH型テープレコーダーを貸し出すことにした。東通工は金のない会社だが、井深も盛田もこういうことには理解がある。喜んで何十台も貸し出した。
一方では、学校放送だけではなしに、もっといろいろな教科にテープレコーダーは使えるのではないか……。倉橋たちは、どうしたら最も有効な使い方ができるかを、文部省や学校の先生方と一緒になって勉強し始めた。そしてしばらく経った頃、倉橋は盛田に呼ばれた。「あなたのやっていることは、大変良いことだ。しかし、ただ勉強しているだけでは惜しい。ひとつ全国を歩いて、今まで勉強してきたことを話してみないか」
倉橋は、東通工でつくった録音教育研究会の常務理事として、全国の教育の現場で"視聴覚教育のあり方"というテーマで講演をして回ることになった。この会は、財団法人でも何でもない、ただの会だ。実際どの講習会でも、倉橋は東通工のテープレコーダーをお買いくださいとは、ひと言も言わない。単に、視聴覚教育の重要性を説き、その教育上での録音機の使用法を説明し、講演して歩いたに過ぎない。
この方法が良かったのか、講演の依頼がひっきりなしに続いた。現場から教えられることも結構多い。たとえば、ソロバンの読み上げ算では、均一な授業ができる上、テープレコーダーが読み上げている間、先生は生徒の間を回って指の使い方を指導できる。教室が騒がしく、何度注意しても収まらない時、テープレコーダーにその騷ぎを吹き込んで聴かせたら、一度で静かになったという報告もあった。この後も録音機があれば、これだけ活用できるという事例がたくさん出て、学校の必需品となっていった。
『溝を掘って、水を流せ』の言葉通り、こうした普及活動の成果が実を結び、東通工のテープレコーダーは、瞬く間に全国の学校に広まっていった。このことから盛田たちは、本当の市場、最上の市場というのは市場開拓にほかならない。つまり、マーケットクリエーションがいかに企業にとって大事かということを体得していった。
盛田たちの努力により販売体制も整い、東通工製品の全国販売が行われるようになった。ある日、盛田はおかしなことに気が付いた。九州地区に限ってテープレコーダーがよく売れるのだ。調べてみると、九州は炭鉱ブームで非常に景気が良く、そのため九州全域で金回りが大変良かったということが分かった。これはありがたいことではあったが、それが突然バッタリと売れなくなってしまった。国内炭の需要が減って経済状態が悪くなってきたのだ。
これまで九州の売り上げがたくさんあったので、東通工ではそれにすっかり頼りきっていた。それが突然なくなってしまって、会社の規模の小さい東通工では大慌てである。どうやって、これをカバーしていくか。結局その時は、他の地域の売り上げを少しずつ上げていくことで、何とかしのぐことができた。「もしも、九州にだけ頼っていたら、東通工は潰れていたかもしれない」
同じように、もしも、東通工が東京だけに頼っていて、大震災でも起きたらと思うと、盛田は、1地域にだけ頼った販売がいかに会社に危険であるかを考えざるを得なかった。「マーケットは広いに越したことはない。それなら日本だけでは危ない。日本より世界中に頼ったほうが安全だ。今はまだ、そんなことができる時期ではないが、いずれは世界にマーケットを広げなくては……」
広いマーケットさえ持っていれば、どういう状況が起きても、何とか自分たちの製品を消化してもらえる場所を見つけることができる。企業にとっては、マーケットが広いほうが安全だという考えに行き着いた。しごく簡単明瞭な答えのようではあるが、これまで販売の経験のない盛田たちにとってみれば、これさえも非常に貴重な教訓であった。
東通工が、テープレコーダーをやってこられたのには「高周波バイアス法」という特許が大きく物を言っていた。特許があればこそ、市場を独占できる立場にあったのだ。ところが、特許には期限がある。盛田たちにとって、これは大問題であり、特許の期限の切れることを非常に恐れていた。しかし、その日は来る。期限が切れるという頃になって、大手の家電メーカーがテープレコーダーの生産を始めるという話が入ってきた。東通工とは比べものにならないくらい大きな会社がテープレコーダーを始めるとなると、これは、もう脅威以外の何物でもない。またしても、東通工は潰れてしまうのではないかという懸念が、盛田の脳裏をよぎった。
ところが、奇怪な現象が起こった。その会社がテープレコーダーを売り出してキャンペーンを始めると、東通工の売り上げもどんどん上がっていったのだ。これには、一同首を捻るばかりだ。1年が経った頃には、東通工の売り上げは飛躍的な伸びを示していた。さらに、他の企業がこの市場に参入してくれば、してくるほどに売り上げの伸びがますます高まってくる。
ここで、盛田たちは奇妙とも不思議とも思える教訓を得た。マーケットというものは、1企業が独占でやっていたのでは駄目だ。たくさんの企業が参加してきたほうが、市場はエキサイトする。東通工は、常に新しいものを作っていく企業だ。それだからこそ余計に、マーケットづくりは東通工1社の手で簡単につくり上げられるものではないということを確信した。
むろん、東通工の製品が他社のものより、性能が劣っていたのでは話は別だ。しかし、少なくとも5年は早く取りかかっている。その間、他社よりも余計に努力をし、良い経験を積み重ねてきた分、東通工製のほうが優秀であり、値段の上でも対抗できるという自信があった。それさえやっていれば、競争相手が入って来ても恐れることはないのだ。いや、むしろ競争相手がいてこそ、自分たちも助けられるというものだ。 この2つの教訓を得て、次第に盛田にも"販売"とか"マーケット"ということが分かってきた。