「もしもし、江崎です……」
鳩山道夫(はとやま みちお)は、ソニーの江崎玲於奈から突然の電話を受けた。江崎の結婚式の2日前のことである。
「これからのソニーは、基礎研究を大事にしていかなくてはなりません。ついては、研究所をつくるのですが、うちの社長の井深は、あなたにやってもらいたいという考えを持っています。それで、社長から直接交渉すると、あなたも驚かれるのではないかと思い、私からあらかじめお知らせする次第です」。江崎の電話の内容は、ソニーの研究所の所長を引き受けてくれないかという誘いの電話であった。
鳩山と江崎は、旧知の仲だ。鳩山は、工業技術院電気試験所の物理部長でトランジスタ研究の草分けの一人である。さらに鳩山は、江崎が発明した『トンネルダイオード』を、国内ではあまり評価されないうちから高く評価し、「これは、もしかすると、大変なことだよ」と周りの人間に言っていた。この話を江崎が聞き及び、互いの交流が始まったのであった。
江崎の結婚式の席上、井深からも直接に「ソニーに来てくれないか」という要請を受けた。鳩山にとっては、思いもかけない話であるため決心がつきかねていた。井深の話ではソニーも立派な研究所をつくるべく、相当腹を決めている様子がうかがえる上、すべて任せてくれるという。江崎も「一緒にやろう」と言っている。それならと、招へいを受けることにした。こうして鳩山は、1960年8月、新設の研究所の初代所長としてソニーに迎えられることになった。
ところが、その話を鳩山の所に持ってきた当の江崎は、IBM社からの求めに応じて、鳩山がソニーに入社するのと前後して、ソニーを退社してしまった。これ以後、ソニー入社のきっかけを聞かれると、鳩山はいつも冗談まじりに、「江崎さんにだまされて入ったようなものだ」と口にすることにした。
そもそも、この研究所がつくられることになった背景には、アメリカによって始められた半導体工学の進展が、極めて速いテンポで進んできたことと大いに関係がある。何しろ未知の分野を開拓していくものだから、新しい事象が次から次に発見された。また、これまではなかったものであるため、次々に成果も生まれるし、目立つというわけだ。そのため、いかにも研究開発の速度が速いように見える。そういうことから日本でも研究所ブームが起こり、いろいろな研究所が設立された。ソニーでは、現在の商売には直接結び付かなくても、10年後、20年後を見越しての研究に取り組むべきだという考えがあった。
さて、この新しい研究所では、半導体とその周辺に関する基礎的な研究が行われることになっていた。その基礎研究の中から、ソニーの将来の発展をもたらすものが作られていくことになるわけだが、本社工場には従来から商品部門に近接した研究開発部門があった。しかし、研究と開発は違う。そこで、開発部門のある本社工場と近い所にあっては、双方ともやりにくい点もあるだろうという配慮から、適当な距離をおいた所ということで、建設予定地は横浜市の保土ヶ谷に決まった。
1960年11月1日の厚木工場の完成に引き続き、11月22日、ソニー研究所の地鎮祭がめでたく執り行われ、工事に着手した。土地8500坪、建物は鉄筋コンクリートの3階建のモダンなものだ。
研究所建設が決定すると、ソニーの研究所にふさわしいデザインを外部の設計事務所に依頼してみてはどうか、という話が出た。これには井深も大乗り気で、米国出張の直前というのに、わざわざ羽田空港から「私が電話をかけてやるよ」と、知り合いの建築デザイナー・吉村順三氏に連絡を取るほどの入れ込みようであった。吉村氏は、ニューヨークの“モテル・オン・ザ・マウンテン”という有名なホテルや、新皇居のデザインを手がけることになっている新進気鋭のデザイナーである。
鳩山にしてみれば、研究者にとって、研究所は建物があって部屋があり、設備があれば、多少不便であっても用が足りるものだと考えていた。ところが、吉村氏はなかなか難しいことを言う。たとえば、建物の中にウォーキング・ライン(人がどういうふうに建物の中を歩き回るかという動線)をどう作るかといったことに苦心している。さすがに餅は餅屋で、建築デザイナーはこういうことを考えるのかと、鳩山は感心してしまった。
さて、保土ヶ谷はもともとが起伏の多い原野で、谷間をぬって水田があるという地形だけに、研究所の建物も丘を削った造成地に、尾根に沿った形でY字型に建てられた。工事を行った建設会社では、この点を考慮して、削った部分の基礎は十分にしてくれたが、盛り土作業に手ぬかりがあったのか、後になって天井に亀裂が入りしつこい雨漏りの原因となってしまった。
この研究所のもう一つの特徴は、下を通るバイパスから研究所への進入をスムーズにするため、ソニーがお金を出して陸橋を架けたことだ。橋の構造は初め鋼鉄製のつもりであったが、井深が「日本では、まだ珍しい工法ではあるが、PSコンクリートづくりというのがある。ちょっと調べてみてはどうだろうか」と提案した。両方の見積もりを取った結果、格段に安くできるPSを採用することにした。
この工法でいちばん難しいのは、“けた”を架ける作業である。それにはまず、研究所の敷地内の橋脚の間に“けた”を架け、この“けた”の上で、長さ 33.7m、幅1.5m、重さ65tという次のPSコンクリートの“けた”をつくり、これをロープで支えながら少しずつせり出し、反対側の橋脚に渡していくという方法だ。工事は土曜、日曜を除く日の、交通量の少ない午前4時から7時の間に限られている。
最初の“けた”を渡す時には、交通量の多い自動車道路であるので“事故がないように、また車の通行を邪魔しないこと”という公団との約束を守るため、ソニーの営繕課から2人が工事の監視をすることにした。夜明けを待って工事は開始され、幅1.5mの“けた”を4本、4日間に分けて無事渡し終えた。所長の鳩山も、営繕課員と一緒に宿直室に泊まり込んでいた。しかも8ミリ持参で、“けた”がせり出す様子をコマ落としで撮っては一人で喜んでいる。これには「全くもって、物好きと言うべきか」と、営繕課員も鳩山のヤジ馬精神に、ただただ敬服するばかりであった。
1961年の完成に先立ち全従業員から橋名を募り、この橋は“ソニーブリッジ”と命名された。全長69m、幅6mの“ソニーブリッジ”は、研究所の成果が本社工場へ、厚木工場へと伝えられる、文字通り橋渡しの役をするブリッジとなった。