このところソニーでは、厚木工場の完成、そして研究所の着工と、社内が沸き立つような話題にあふれていた。ところが、ソニー社内だけでなく、日本中が「アッ!」と驚くような出来事が起きた。ソニー株式のADR(American Depository Receipt=米国預託証券)発行が、日本政府から正式に認められたのだ。これは日本で最初のことである。
ADRを分かりやすくいうと、日本の株式をアメリカの証券市場で売買できるようにしようということだ。どんな株式でもよいというのではない。アメリカ人から見て、日本の企業の中でも健全性と成長性が期待され、将来、投資家に大きな利益がもたらされるであろう有望株式をアメリカで売買しようというわけだ。
そこで、アメリカ市場で外国の株式が円滑に流通するように、日本の原株式を米国の銀行が預託を受け、原株式に代わる代用証券が発行され、取り引きされるのがADRである。
日本の企業としては、ADRとして自社の株式が米国に流通すれば、社名はもちろんのこと、会社内容や製品の良い宣伝になるわけで、その効果の大きさから、何とかADRに割り込みたいという気持ちが強い。大蔵省がADR実施に踏み切ろうとして調べたところ、候補銘柄が100社以上にもなったという激しさだ。とにかく、アメリカの投資家に迷惑をかけるような会社を選ぶわけにはいかない。そうした大蔵省の厳しい審査を経た後、ソニーを含む16銘柄が指定された。この中で、社歴も浅く、資本金わずか9億円というのはソニーだけである。その他は、東芝、日立、八幡製鉄、三井物産といった戦前からの優良企業ばかりであった。
そのため、世間では「なぜソニーが……」という疑問を持つ人も多かったはずだ。アメリカ側にも、ソニーを不安がる声があった。しかし、ソニーが歩んできた道のりとアメリカでの高い人気、会社の規模よりもその将来性が高く買われたこと、それにも増して副社長の盛田たちソニー経営陣がADRに懸ける熱意の強さが、こうした声を吹き飛ばしたのだった。
1961年2月11日、ソニーは臨時取締役会を開き、増資のため新株式発行を決議。そのうち200万株をADRによってアメリカ市場で公募することにした。ソニーが、アメリカで株式公募を行うことを決定した理由は、まずアメリカはソニー製品にとって、国内市場に次ぐ大きな市場であること。また前年には「ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ」を設立し、その製品の販売網を強化するなど、将来においてもアメリカは、ますます重要な市場になってくる。従って、アメリカにおいてソニーの株式を売り出し、多数の株主や消費者に「SONY」のことを知らしめるのには大きな意味を持つと考えたからだ。
盛田たちがADRに熱意を示したのは、一つにはソニーの財務体質に原因があった。いまや、月末に支払うお金に困るということはなくなったものの、新しい製品の研究、開発、そして設備投資にと、お金はいくらあっても足りない。ところが、銀行はなかなかお金を貸してくれない。当時、日本の産業は朝鮮戦争を経て急速な成長を遂げ、そのため、市中の金融事情が苦しくなり、日本は慢性的な資本不足の国になっていた。そこで頼りは銀行ということになるが、皆が銀行に行けば、それだけ貸し出しは厳しくならざるを得ない。
ソニーは、初めは三井銀行だけと取引をしていた。ところが、三井銀行は戦後間もなく、それまでの帝国銀行が第一銀行と三井銀行に分かれたために資金量も豊かではなく、そのうえ戦前から三井グループという大きな産業をバックに抱えているため、ソニーの希望どおりに貸し出すほど余裕はなかった。
「今後ソニーは、すべての銀行と取引をするようにしましょう」。こう、井深や盛田に勧めたのは、三井銀行の東京・八重洲支店長を経て、前年ソニーに来た吉井陛(よしい のぼる)である。吉井は、永く三井銀行にいたので、そういう状況をよく見分けることができた。
当時ソニーの大株主に金融機関は一つもなく、わずかに総発行株式の8%程度を三井銀行と日動火災が持っていたに過ぎなかった。その頃、日本の総産業に対する銀行の持株比率は23%であった。いかにソニーに対する銀行の持株比率が低いかが分かろう。この持株比率を14〜15%に上げ、安定的株主を得るため、吉井は三菱、富士などの各市中銀行の頭取へ挨拶に出向き、取引を頼むと同時にソニーの株を持ってくれるよう懇願してきた。
一方で盛田や吉井は、ソニーがこれからもっと大きくなるためには、真の財務のあり方はどうあるべきかを真剣に考え始めていた。「これまでのように、銀行からお金を借りて会社を動かしていたのではだめだ。銀行から独立しなくては……。それなら証券市場を通じてやろう、しかも日本だけに限らず、世界中から資金の調達をしようじゃないか」。盛田たちの下した結論によるソニーの選択が、ADRの発行というわけだ。
そこで大蔵省から、預託銀行になることのできる各銀行で10社を選べという指示が出て、三井銀行も選び始めたが、ソニーなど三井グループからすれば、とてもADR発行の資格などない。そこで、ソニーは東京銀行に受託銀行になってもらうことにした。先に、ソニーがすべての銀行に取引を頼んだというのも、実はADRを発行する際に受託銀行が必要となることを見越しての措置であったのだ。
無事ADR発行の資格を得たソニーがまず手始めにやらなくてはならないのは、ADRの手続きを理解することであった。これは、中途半端な知識で理解できるようなものではない。このADR発行のプロジェクト・マネジャーは盛田自身が担当し、以後、実際にアメリカでソニーのADRが発行される6月までの約半年間、盛田はこの作業に没頭していくことになる。
こうして諸準備を終え、今回のADR発行の幹事会社である米スミス・バーニー社と野村証券によって最終の手続きが進められ、海外公募についての大蔵省の承認許可を得た。そして6月6日午後1時(日本時間7日午前2時)、アメリカのSEC(証券取引委員会)は、ニューヨーク市場でソニー株式を公募する旨の登録申請を正式に受理。ソニーは、その効力が発生した旨の通知を受けた。 ADR第1号になったソニーADRは、1ADRが原株10株単位、公募価格は17ドル50セント(6300円)で公募を開始したが、発売後わずか1時間で200万株が売り切れ、買い23ドル、売り24ドルという大人気。成り行きを心配していた関係者一同は、ホッと胸をなでおろした。かくして、公募手続きの最終的な締めくくりである払込期日(クロージング・デイト)を迎えた。6月15日、ソニーの受託銀行になってもらった東京銀行において原株券の検査と払い込み・引き渡しが行われ、ニューヨークではそれを国際電話とテレックスにより確認、無事クロージングを完了した。これで、ADRは正式発行の運びとなり、この時点でソニーの資本金は21億円になった。 ADRにより、積極的に新しい株主をアメリカで募集し、外資の導入を図っていくというソニーの計画は、大成功であった。しかも、この成功は、単にソニーだけにとどまらず、後に続く日本の企業に大きな道標を残したのである。