ソニーは、米アンペックス社が開発した回転ヘッド方式で、1958年に我が国初のVTRを完成させたが、社長の井深は不満であった。井深の頭にあるのは、世の中の人が普段の生活で使えるようなものの開発である。VTRの小型化をトランジスタを使って実現させるため、井深は主任研究員の木原をリーダーとするVTR開発チームにハッパをかけた。
1959年11月には、やはりアンペックス方式でVTRのトランジスタ化を成功させ、これである程度小型化のメドがたった。1960年になると、ソニーとアンペックスの間で、VTRの技術的ノウハウの交換を行うことになった。アンペックスにとっては、ソニーのトランジスタ応用技術をものにしたい、一方ソニーは、世界の放送業界の規格にまでなったアンペックスのVTR技術からいろいろ学ぶところがあったのだ。この技術提携を推進するため、これまで羽田工場でオーディオ機器の生産に取り組んでいた森園正彦(もりぞの まさひこ)が駆り出された。
しかし、アンペックス方式では限界がある。同方式は4ヘッドのVTRであるため、ヘッドが摩耗した時、回転ヘッド全体の交換が必要となり、非常に大きな維持費を必要とする。ヘッド交換の容易なVTRを作るという意図のもとに、木原たちはソニー独自の着想により、2ヘッドのトランジスタVTRの開発を進めることになった。
こうして出来上がったのが、世界初のトランジスタ式VTR「SV-201型」だ。このVTRは、2ヘッドのヘリカルスキャン(テープ上を、ヘッドがらせん状に走行しながら記録/再生する。現在のVTRはこの方式)タイプで、当時のVTRの水準をはるかに上回る高性能機であった。ところが、これはアンペックス方式とは異なるため、放送局用としてはあまり喜んで受け入れられる方式ではない。さらに、家庭用としては大き過ぎるし、高価過ぎるという中途半端な機械であった。そこで、新たにマーケットを開拓することになり、その用途に合わせて出来上がったのが「PV-100型」である。大きさは、放送局で使用されているアンペックス製に比べて、容積で50分の1と非常に小さくなった。アンペックスVTRがタンス2さお分とすると、この「PV-100型」は茶だんすくらいの大きさと非常に小さくなった。この大きさであってもポータブルと名付けたくらい、当時としては画期的に小さくなったのだ。
1962年9月に発表された「PV-100型」は、1963年7月に248万円で発売され、8月からはアメリカ向けにも輸出された。用途は、業務用である。まず病院に、続いて学校に、そして航空会社へと売り込みが行われた。その当時、機内では8ミリや16ミリのフィルムを上映し、乗客にサービスしていた。ところが、スチュワーデスがこれを扱う際、フィルムが外れたり切れたりして扱いにくい。さらに上映時間も短く、不便であった。そこでフィルムをVTR に替えてはどうかと、売り込んだわけだ。
「PV-100型」は、1964年、65年とアメリカン・エア・ライン、パン・アメリカン機に採用された。さて、これに供給するソフトが必要だ。毎週新しいソフトテープを供給するため、ニューヨーク郊外に「インフライト・VTR・サービス」というテープのダビング工場ができた。こちらでも、大儲けができるはずであった。ところが、扱いに慣れていないスチュワーデスは、「PV-100型」(テープはオープンリール式であった)にテープをセットしようとするとき、うまくできずテープをグチャグチャにしてしまう。さらにコーヒートレイやコップを無造作に置いてひっくり返し、テープがくっ付いてしまったりと散々な状態になった。40回くらいは繰り返して使えるだろうという予測は見事に外れ、たった1回で、無残な姿で返ってくるテープが続出した。
こうした苦労はあったものの、放送局にしか使われることがないと思われていたVTRが、「PV-100型」により一歩コンスーマー用に近づいていったのだ。また、木原や森園たちが、この時期築いたVTRの基礎的な技術が、のちにソニーの放送・業務用VTRや家庭用VTRのベータマックスに受け継がれていったのである。
トランジスタは、井深たちが夢みたように、ラジオ、テレビ、そしてVTRへと、どんどんその応用の場を拡げていた。
そして、ここにもう一つ、トランジスタを使って計算機を作ってみようと考えている男がいた。研究部の植村三良(うえむら さぶろう)だ。彼が目を付けたのは、厚木工場で作られているトランジスタである。検査で不合格となり、廃棄処分されてしまうトランジスタは、ラジオやテレビには使えなくても、デジタル回路のスイッチングになら使えるだろうと思い付いたのだ。そして、使えそうなトランジスタ1000個ほどをもらい受け、試作機が作られた。
試作機は、計算機としては、ほんの初歩的な域を脱してはいなかったが、評判はまずまずであった。これに意を強くして、植村は本気で計算機に取り組むことにした。「現在ソニーは、トランジスタで景気よくやっているが、あと15年もしたら、デジタルの仕事を避けて通ることはできない」。植村は、日頃からこうした考えを抱いていたのだ。
ところが、井深は「うちは、一般消費者相手のものをやろうとしているんだ。そんなものをやっても、商売にはならんよ」と言って、頑として受け付けてくれない。植村は「捨てるようなトランジスタで作るのですから、原価は安いです」と食い下がった。それでも井深は、いい顔をしない。そこで井深の目をかすめて、内緒で研究を始めることにした。それでも井深の目に触れるところとなり、大目玉を食らってしまった。
しかしそこまで思い詰めてやっているものなら仕方がない。井深も「ソロバンの替わりになるようなものならやってもいい。その代わり、大型のコンピューターは絶対に承知しない」と、条件付きで許可してくれた。
“ソニーらしい小さい電子ソロバン”----植村たちの目標ができた。その頃、世の計算機分野では、エサキダイオードなど世界に誇る研究が相次いで生まれ、研究者や技術者たちは熱に浮かされたように大型化、高速化に向かって進んでいた。植村たちの研究は、全くそれと反対だ。小型軽量化と、大型の高速度計算機には遠く及ばないものの、瞬間的に計算を行うという、世界でもまだそれらしい研究の芽さえ出ていないようなものであった。
植村たちが目指す電子ソロバンには独自の開発が必要だった。低消費電力の回路、計算した答えをどんなふうに表示するか、メモリーには何を使うかと、あらゆる検討が繰り返された。
1962年、夏の終わりのある日、電子ソロバン開発に携わってきた担当者たちは、等しく緊張して、自分たちの苦心の第1作「MD-3号」の前に立っている井深たちトップ役員の手元を見つめていた。この機械は、電動タイプライターが付いていて、計算した答えをすぐタイプで打ち出せるようになっている。役員の1人が、キーに手を触れた。〇〇×〇〇……かたずを飲んで見守っている植村たちの前でイコール・キーが押された。それと同時にカタカタと、タイプライターが動いて正確な答えを印字する。「ホ〜ッ」というため息がもれた。
こうして、植村たちの電子ソロバン開発は、トップの認めるところとなった。しかし、このままでは完成品には程遠い。1号機、2号機と試作機が作られた。比較的、低速度動作であってもよいから、低消費電力のものにしたいという要求のもと、シリコントランジスタ、シリコンダイオード、高抵抗を用いた小型ハイブリッドICの開発が始まった。そして、1964年3月、世界初のオールトランジスタの電子式卓上計算機が完成した。
新開発のICを一部に用いた計算機「MD-5号」は、1964年3月の完成と同時に、ニューヨークで開かれた世界博に出品されて、世間の注目を浴びることになった。世界博はその名のとおり、世界中からその国の誇りうるものが出展される。日本から選ばれたのが、巨大タンカーの「日本丸」の模型、ソニーのマイクロテレビ、BGM装置、VTR、そして世界初のトランジスタ電子式卓上型計算機「MD-5号」であった。
「MD-5号」は8けたの電算機で、注目されたのは、その操作性の良さである。“1”を押して“プラス”を押し、“1”を押して“イコール”を押すと、答えの“2”が出るというように、演算のとおりの数式で入れれば答えが出るという、当時は全く考えられなかったオペレーティング・システムが開発された。それまでの計算機というのは、たとえば掛け算は足し算の繰り返しなので、2倍というのは2回足せばいいといった感じの、足し算機、引き算機に過ぎない。ところが、ソニーのやり方を標準化していけば、それまで筆算をやっていたのと同じ順序で簡単に計算ができることから、大変使い勝手が良くなる。
スイッチはマグネティック・スイッチで、数字の表示には放電管を使用した。また、スイッチングを機械的なリレーでやろうというリレー式の電子計算機もあったが、植村たちは、それに匹敵するものをトランジスタでやったのだ。これだけでも、大型電算機にばかり夢中になっていた、アメリカの研究者たちの耳目を引くに十分であった。植村たちの計画は、大成功であった。
ここまでは、研究開発の段階であった。いよいよ次は、製品化〜量産化への険しい道のりが待っている。実用化に向けて、改良が施された。小数点表示が付くようになり、さらに小型軽量化・高性能化が進められ、試作名「MX-11」が誕生した。これが、1967年6月に発売されたソニーの電子式卓上計算機 SOBAX「ICC-500」の試作機である。SOBAXとは、Solid State Abacus(またはAbax)=固体回路ソロバンのことで、ソロバンのように手軽に使え、しかも複雑な演算をスピーディにこなせる計算機という意味から付いた商品名だ。「MD-5号」を世界博に出品以後、世界の各社が競ってポータブル電子計算機分野に参入を始め、今日のような電卓の普及を見ることになるのだが、その普及に一役も、二役も買ったのが、このSOBAXである。
今日の電卓に活かされているオペレーティング・システムの数々は、このSOBAXに端を発していると言ってもよい。たとえば、これまで8けたあれば、何もない時でもディスプレイに000……と8個の0が出ているのを、使う数字以外の0を消すゼロ消去、フローティング・デシマル、四捨五入の方式の案出、パーセント表示、逆数をとるなど、考えつくあらゆる考案がなされたのだ。それゆえ、のちにはアメリカのスミソニアン博物館に収められるという快挙をなし遂げたのであった。
ただ、この「ICC-500」は価格が26万円と高く、とてもソロバン代わりにはならない。家庭の主婦が、26万円もする計算機を使って家計簿をつけるというようなことは考えられない。そこで、オフィス・ユースあるいは設計・計算をやっている技術者を対象にしないと売れない。しかし、そうした人たちは、機械的計算機の計算手順に慣れていて、植村たちが標準化しようとした“学校で習う算術どおりの手順”に従って計算するという新しい方式に違和感があるということで、販売面では大きなジレンマを抱えた商品になってしまったのである。
1963年10月、ソニーは、JR山手線・大崎駅前にある園池製作所が本社工場を神奈川県小田原市に移転するにあたり、同製作所の敷地と建物を買い受け、「大崎工場」とすることになった。この新工場は大崎駅から徒歩2分、品川御殿山の本社工場からも約10分という、地理的に恵まれた所にある。建物は、地上4階、地下1階、総面積1万200平方メートルで、同製作所が建設中のところを、ソニーが引き継ぎ、1964年の秋にはトランジスタテレビなどの量産工場として本格的操業に入るべく、改装工事が進められた。
カラーテレビでは出遅れたソニーが、シャドーマスク方式に比べて6倍も明るいクロマトロンに飛びついたのは、1961年のこと。しかしそれまでクロマトロンは、軍事用という特殊な用途にしか作られていない。それほど製造技術が難しかったわけだが、井深や盛田は、トランジスタをものにしたように、今回も何とかいけるのではないかという希望を持って、これに取り組むことに決めた。
ブラウン管の開発は常務の岩間が統括し、その下に吉田進(よしだ すすむ)が付き、大越明男(おおごし あきお)、宮岡千里(みやおか せんり)らが担当することになった。
クロマトロンの産みの親である、アメリカのローレンスの着想の一番のポイントは、1つの電子銃から出た電子ビームが、カラースイッチンググリッドという細い針金を編んだ、すだれ状のもの(トリニトロンのアパチャーグリルの前身のようなもの)の所まで行くと、針金の隙間でビームが絞られ、ここを通り抜けて、所定の赤、緑、青の蛍光体に照射されるというところにある。普通光学的に考えれば、ビームが直進しグリッドに当たると、グリッドの影を蛍光面に映して、それだけ画面が暗くなると思われる。ところが、ビームは針金の隙間を通り抜けるという。これで、電子ビームは80%以上利用でき、明るい画面が得られるということになる。
これは、確かに原理的には優れたものであったし、学問的にも間違ってはいなかった。ところが、いざこれを実用機器にすべく開発を始めてみると、ローレンスの教科書には書かれていない、いろいろな問題が出てきた。しかも、理論どおりに作られたところでものすごい製造コストがかかり、とても商品化できるような代物ではなかったのだ。
問題はたくさん残っていたものの、クロマトロンは1964年9月に一応の完成を見せ、これまでの研究の成果として、単電子銃型高忠実度点順次式の19型クロマトロンが、報道関係者に公開された。この新方式カラーテレビは、テープレコーダー、トランジスタラジオ、トランジスタテレビ、VTRに次ぐソニー第 5の製品として、各方面の注目を浴びるところとなった。生産ラインは、先の大崎新工場が充てられることになっている。
世間に発表したからには、何としても問題を解決して、「さすが、ソニー」という評価を得なくてはならない。研究陣の苦闘は、発表後ますます激しいものになっていった。