クロマトロンカラーテレビの開発では思わぬ苦戦を強いられた。しかし、別の分野で1つ、井深の夢が実現した。ついに家庭用VTRが完成したのだ。
「1台60kgで、何百万円もする機械は主義に合わないなあ」。それまでの50分の1という容積にまで小さくなった「PV-100型」ができた時でさえ、社長の井深は満足せず、あくまでも家庭で使える大きさと価格に固執していた。
そこで、木原が苦しまぎれに考えたのが、家庭用VTR「CV-2000型」である。1964年10月に発表された「ビデオコーダー2000」は、2分の1インチテープを使った回転2ヘッド方式のVTR で、重さは一般に使われているテープレコーダーと大差ないわずか15kg、価格はこれまで放送局用で2000万円、工業用でも250万円していたのが、一挙に19万8000円となった。小型化追求のためにモーターから機構部分の加工技術まで改善が施され、価格を抑えるためにフィールドスキップという録画方式(テレビ放送画面を1枚おきに記録する)が採用された。
井深は「今回の製品は、人の真似でなくソニーで生まれ、育ち、成長したものです。生活に革命を生む製品をというのが、ソニーの特徴であり、喜びであり、価値です」と、「CV-2000型」の誕生を喜んだ。
続けて明るい話題が2題あった。そのひとつは、1965年1月に、ソニーと世界最大の電子計算機メーカーであるIBMとの間に、「電子計算機用磁気テープの製造技術援助契約」が交わされたことだ。IBMは電子計算機の分野では、世界市場の7割を押さえる巨大企業である。そこに磁気テープの作り方を教えるというのだから、世間のほうが驚いてしまった。
IBMが初め目を付けたのは、高性能のメタル磁気テープ「Hi-Dテープ」であった。このテープは、ソニーと東北大学の共同研究によって開発されたもので、在来の磁気テープが酸化鉄磁性材料を使用しているのに対し、ニッケル、コバルト、鉄の合金粉末による磁性材料を塗布し、磁束密度、抗磁力が極めて強く、単位面積あたりの記録密度が極めて高いことから、高密度(High Density)テープ=Hi-Dテープと名付けられていた。
それまで、IBMは自社で使う電算機用磁気テープのすべてを、米国3M社に依存していた。しかし、電子計算機の性能が高度化されるに伴い、従来のテープでは記録特性に限界が出てきた。そのため、IBMではテープを自社で生産する必要を抱き、これに代わる新しいテープの開発が急がれていた。そういった事情を抱えて、IBMのワトソン会長が来日し、ソニーを訪れた。
「お宅のテープを見ました。このテープの技術があれば、我々が求めているコンピューター用テープも必ずできるはずだ」
応対に当たった副社長の盛田に、ワトソン会長はソニーと提携の意思があることを伝えた。さらに続けて「ソニーとIBM、50対50の合弁会社で、このテープの製造会社を作ろう。場所は、日本でもアメリカでもかまわない。そこでできたテープは、すべてIBMで買い取る」と言う。これは、悪い話ではなかった。が、社内から反対の声が上がった。「お客が、IBMだけというのは危険だ。値段を買いたたかれる恐れもある」という意見だ。これも、確かに一理あり、合弁の話は中止となった。
IBMは、なおも食い下がってきた。「合弁会社は諦めた。それでは、お宅の技術でアメリカに我々のテープ工場を作ってくれ」というのだ。話はまとまり、 1965年11月、ソニーはIBMと電子計算機用磁気テープの製造技術契約と、新しい磁気記録媒体の共同研究並びに技術援助契約を結び、政府に認可を申請。翌1966年1月に、政府の正式認可を得て、技術供与が行われることになった。
政府からの認可が下りると同時に、IBMとソニーは技術者の交流を図り、磁気テープの共同研究開発を開始した。
間もなくして、磁気テープ製造プラントが完成し、据え付け工事が始まった。これには、ソニーからも10人ほどの社員を現地に派遣した。3ヵ月かかって、ようやく据え付けが終わり、試運転に入ったが、結果は思わしくなかった。
テープ製造において、磁性特性の良し悪しが言われるが、そんなことよりも、一番大切なことは、まずテープに磁性剤をうまくコーティングすることができないと困る、ということだ。試運転でも、これがなかなかうまくいかなかった。この原因としては、一つは材料、もうひとつは日米の製造方法のやり方の差ということが挙げられる。
材料については、材料の一つひとつが同じ名前でも、日本で仕入れるものと若干内容が違っている。製造方法については、日本ではベース、粉、糊、潤滑剤を混ぜ合わせ、ちょうどよい練り具合になったなと思うところで、それをサッと塗る。それは、まるで天ぷらの衣を作るごとく、職人の勘みたいなもので、「まぁ、これでいいだろう」と判断してやっている。ところがアメリカでは、そんな器用なことはやらない。すべて計測器に頼っているのだ。
この辺りが、微妙にうまくいかないのだ。このため、テープ工場ができてからも、双方が満足いくテープができるまで、1年という時間が必要であった。のちに、IBMでは、このコーティングのすべてのデータを計測器でコントロールできるようにしてしまった。
この契約でソニーは、契約一時金として10万ドル、ロイヤリティー(特許権使用料)として1巻当たり10セントの対価をIBMから受けることになり、契約期間の10年間には、かなりの額のドルがソニーにもたらされることになった。しかし、当時のソニーにとっては、契約料やロイヤリティーの高さよりも、お金には換算できないもの、巨大企業IBMに技術を輸出したということこそ、大きな報酬であった。
しかも、これまで磁気テープの分野では、アメリカの3M社が世界的に著名なメーカーと知られており、IBMもまた電子計算機用磁気テープの全量を、この 3M社から購入していた。ところが、今回IBMが、同じ米国内で、しかも最高の技術と設備を誇る3M社を選ばず、ソニーと技術援助契約を結んだというので、それだけソニーの評価も一段と高まり、「とかく、外国技術導入に明け暮れている日本の産業界にとって近年まれにみる朗報である」と、新聞紙上でもソニーの快挙が報じられたのである。
さて、もう一つの明るい話題は、ソニービルのオープンだ。1966年、ソニー創立20周年に当たるこの年の4月29日、銀座数寄屋橋にこのビルは建てられた。
数寄屋橋は、ソニーにとって因縁が深い。1957年、現在ソニービルが建っている場所に、当時では初めてのネオン管に代わる豆球を使って「SONY」の広告塔を設置し、大きな話題となった。ソニーではこの場所の優位性に目を付け、それ以来ずっと、いつかこの場所で何かしたいという思いを抱いてきた。 1959年には、この広告塔を掲げていたビルの1階を借り、20坪足らずのショールームを公開したが、地の利のせいか客足も良く、またソニー製品群の増加もあって、手狭になってしまっていた。
手狭になったショールームをどうするか……。ショールームを拡張しようという話が高じて、遂には「この場所を買ってしまおう」というところまで話が進んでしまった。
「買おう」と言うのはたやすいが、そこは土1升金1升といわれるくらい、日本で一番地価の高い銀座である。そう簡単に片づけられるような事柄ではなかった。1961年4月、不動産管理会社「ソニー企業」が設立され、本格的な動きが始まった。同社の初代社長は、ソニー創業当時から資金のやり繰りに苦労してきた太刀川(たちかわ)だ。
太刀川は、当時、三井銀行数寄屋橋支店の支店長をしていた小山五郎(こやま ごろう)の所へ相談に行った。「あなた、あそこは暗黒街ですよ」。小山はそう言って、銀座の土地に手を出すことの難しさを、太刀川にほのめかした。
この言葉は、本当だった。1962年にソニービルの建設が本決まりとなり、1964年の東京オリンピックを完成目標に用地の買収が始められた。実際に土地買収の交渉が始まって、太刀川にも小山がここを暗黒街と言ったわけが分かった。銀座は、特に戦後複雑に複雑を重ねた土地ゆえ、その地上権も入り組んでいる。その頃、まだ銀座にも夜店が出ていた。その夜店の元締めをしている親分がいる。地主に家主、借家人、その借家人から又借りしてテーブル1つ置いて権利を主張する者、これらすべてを合わせて優に100人の人たちと交渉しなくてはならないのだ。中には、長年住み慣れた土地から離れ難く思っている人も多く、特にここで商売をしてきた人は、土地というものが商売にとってどんなに大切なものかを知っているだけに、絶対に売りたくないという気持ちがあり、用地買収は難航の一路をたどってしまった。
初めてソニーのものになった土地は、現在のソニービル裏手にあった、30坪ほどのお汁粉屋であった。こうして、少しずつソニーの権利が拡張されていった。それにしても、たとえ1ヵ所でも土地利用権者が残っていては、ビルの設計ができなくなる。土地関係者との交渉は、辛抱強く、地道に続けられていった。
一方、土地の問題とは別に、この土地にどんなビルを建てようかという議論が出てきた。設計は、東京オリンピックの駒沢競技場を設計した芦原義信氏に頼むことにした。芦原氏とソニー企業の役員の1人が古くからの友人であり、井深も盛田も、この建築家が気に入った。
設計図は、土地が揃った場合と揃わなかった場合など、何種類も描かれた。これがソニーの建設委員会に持ち込まれ、検討されるのだが、この委員会には、井深や盛田も必ず顔を見せた。「立派なビルを建てたい」という強い意気込みがソニーのトップにはあった。
しかし、最初からビルの具体的イメージを持っていたわけではない。ただ設計を依頼する前から、井深や盛田が考えていたのは、ひとつには“銀座を訪れる人たちの憩いの場となり、気軽に楽しんでもらえるビル”、もうひとつは“他にはないユニークなデザインのビル”にする、ということだけであった。
「どういった性格のビルにするのが一番いいのだろう」という議論が、何度も交わされた。むろん、地上階はソニーのショールームにすることが決まっている。「ここを、ソニーの本社事務所にしてはどうか」という意見も委員の中から出された。しかし、いくら場所が良いからといって、この高価な土地の上に、ソニーの本社事務所を置くのはもったいない。「それでは、いっそ貸し事務所にするか」。これも、わざわざこんな場所にビルを建てて、ソニーとして営業をする意味合いはない。それでは、一体どうすれば良いのか。
良いアイデアは、得てして雑談の中から生まれることが多い。
ソニービルが現在のようなビルになったのも、実はそういった雑談の中から構想ができ上がっていったのだ。
その日、芦原氏を囲んで盛田、ソニー企業の役員、そしてソニー本社から総務部の倉橋、デザイン室の黒木が、都内のホテルの1室に集まり、夜を徹して新しいビルの夢を語り合っていた。だんだんと話が煮詰まってきて、ソニーのショールームを中心にした総合ショールームビルにしたらどうか、というアイデアが出された。アイデアが出されると、また1つアイデアが出る。
ショールームビルにするのであれば、来館する人たちが、次々と興味を持って見て回れるような構造でなくてはならない。メンバーの1人が、F・L・ライトの設計で有名な、ニューヨークのグッゲンハイム美術館の構造について語った。この美術館は、エレベーターで最上階まで上がり、後は渦巻き状の通路を、絵を見ながら歩いて行くと、自然に下まで来てしまうというものだ。
「それなら、スパイラル(らせん型)方式のビルにしよう」と芦原氏が続けてくれた。1つの階を“田の字”型に4つに分け、真ん中の柱を中心にして、4つのセクションを少しずつ段違いにして、ひと回りでちょうど1階分下がるという、四角の花びらが、渦巻き状に回っているという面白い方式だ。文句なく、これに決まった。
さらに、芦原氏から「ちょっとぜいたくだけど、ビルの角に庭のようなものを作ってはどうだろう」という提案がされた。盛田も「実のところ自分も、大きなクリスマス・ツリーやスケートリンクがあって、人を楽しませることができる、ニューヨークのロックフェラーセンタービルのようなものはできないかと考えていたんだよ」と言って、この案に大賛成であった。それにしても高価な庭になりそうだ。
これで、大体の構想ができ上がった。芦原の手で、何百枚という設計図面が引かれ、半年後に1枚の青写真が出来上がった。それは「小さい土地を、最も有効に利用したビル」とも言える、素晴らしい設計図であった。この頃になると、220坪ほどの土地買収もほぼ完了し、1964年6月、地鎮祭が執り行われた。当初の予定では、同年に開催される東京オリンピックが完成目標であったので、随分と遅い工事着手となってしまった。しかも悪いことに、ちょうどビルの基礎工事の時に、この東京オリンピックとぶつかって工事の進み具合も大幅にペースダウンした。追い込みに入った1965年からは、昼夜を問わず突貫工事だ。
さて、ショールームビルであるからには、テナントを募集しなくてはならない。最初いろいろな計画が出された。「世界各国のショールームというのも面白いのではないか」という案も出て、各大使館に話を持って行ったが、あまり良い返事が返ってこない。結局、日本の代表企業にしようということで落ち着いた。
「売り場をつくって、営業ということをなさっても、銀座の一等地で採算をとるのは大変だと思います。しかし、あくまでも営業ということをなさらずにショールームということでお使いいただくのですから、これは宣伝費で経費が落ちます」。そう言って、担当者たちは日本を代表する企業を1社1社回って歩いた。しかし、当時日本でも珍しいショールームビルというものに、理解を示してくれる企業は少ない。テナントが埋まらないのに、工事はどんどん進んでいく。1業種 1社で一流の企業ばかり集めるのは、大変な作業であった。
完成までに2年の歳月が、また土地と建設費で32億円という大金がかかった。32億円といえば、当時のソニーの資本金と同じ額である。つまり、ソニーがもう1社できる金額をかけて、ここ銀座にソニービルが建ったのである。
ソニービルの完成は、1966年。初めはソニー創立20周年の5月7日を、オープンの日にしようと計画を立てていた。しかし、「創立記念日にこだわることはないよ。どうせやるならゴールデン・ウィークにオープンしたほうが良いのではないか」という盛田の発案で、オープンの日は4月29日の天皇(昭和天皇)誕生日に決まった。
4月15日午後11時、工事が完了し、建設会社からビル引き渡しが行われた。感慨に浸る間もなく、翌16日深夜から機材の搬入が始まった。そして、オープンを迎える日の午前1時、全館に明かりが灯されると、ビルの全容が、夜空に高々と浮かび上がったのである。
こうして、ソニービルはオープンにこぎ着けたものの、盛田には人知れず気がかりなことがあった。それは「電機の専業メーカーであることをモットーにしてきた我が社が、こんなビルを建てること自体、やるべきことではなかったのではないだろうか……」ということだ。これは、当時日本の景気があまり良くないことが、原因の1つであった。不景気のせいで街を歩く人たちもどことなく活気がない。「こんな状態でビルをオープンしても、果たして人が来るだろうか」。盛田の心配は、そこにあった。しかし、これは取り越し苦労であった。日増しに来館者は増え、日ならずして、ソニービルのお陰で銀座の人の流れが変わったとさえ言われるくらいの名所になっていた。
ところで、盛田を心配させた日本の不景気というのは、1963年7月、アメリカのケネディ大統領が“金利平衡税”を実施したことに端を発している。 1963年の7月といえば、ソニーが2回目のADR(米国預託証券)を発行したすぐ後のことである。アメリカの経済はちょうどその頃下向きとなり、国内にある資本がどんどん国外に出て行くという現象が起きていた。ケネディ大統領はこれを防ぐため、「資本をアメリカの外に出す者は、すべて一律16.5%の税金(利子平衡税)を払え」と“金利平衡税”という強権を発動した。これで、アメリカの資本の流出はパッタリなくなったものの、このあおりで世界の市場は、パニック状態になった。日本も例外ではない。1965年に入ると、日本にもその影響が出てきて、証券市場始まって以来という大不況が起こった。東京のダウ平均株価が1020円まで急落し、日本経済は潰れてしまうのではないかと思われた。
ご多分にもれず、600円台で発行されたソニーの株価も、250円まで下がってしまった。250円、260円といったところでの低迷がいつまでも続いた。こんな状態では、ソニーもお金を集めることができない。当時ソニーは、クロマトロンの研究開発費、ソニービル建設に莫大な資金が必要であった。その上、1966年6月には、横浜市保土ヶ谷の研究所で土砂崩れが起こるという災難まであって、多額の復旧費がかかってしまっていた。
お金は、いくらでも必要であった。しかし、国内にはもう購買力はない。こんなに日本が絶望的な状態ならば、外国でソニーの株を買ってもらうしかない。そこでソニーでは、積極的に外国人投資の誘致を始めることになった。
「アメリカで、一番お金を持っているのはIBMです。IBMに行って、16.5%の税金を払っても、ソニーの株を買えば、やがては大きな利益を得られますよと、売り込みに行こうかと思います」。財務を担当している吉井は、こう井深と盛田に切り出した。単身IBMに乗りこんで行っても、相手にしてもらえるかどうか分からない。しかし吉井は、1965年にソニーとIBMとの間で交わされた「磁気テープの技術援助契約」の際に知り合った、IBMの副社長で技術担当重役のハーケンシュタック氏に当たれば、どうにかなるのではないかというかすかな希望を抱いていた。
ひっ迫している財政を何とかするのが、当面の問題である。井深も盛田も、吉井の意見に賛成であった。