IBMがソニーの株を買ってくれなくては、どうしても困る。ソニーのひっ迫した財政危機をこれによって、何とか乗り切らなくてはならない。しかもこの時、危機を迎えていたのは、ソニーばかりでなく、財務担当役員の吉井本人も大変な事態を迎えていたのだ。
吉井は、三井銀行八重洲支店長から、1961年にソニーに入社した。その時、ちょうどソニーADR(米国預託証券)の最初の公募直前であった。吉井も勧められて、ソニーの株を2万株買った。30年勤めた銀行の退職金で1万株と、その株を担保に銀行から借金をして、もう1万株買い足した。590円の公募で 2万株、締めて1200万円近い金だ。これには副社長の盛田も驚いて、「吉井さん、あんた本当に大丈夫か」と、心配したほどであった。
上げ潮に乗って業績も好調なソニーだ。そんな心配はないはずであった。ところが、先の“金利平衡税”だ。この影響で日本の経済に不況が起こった。590円で買った株が、250円まで下がってしまった。退職金を全部つぎ込み、さらに借金までして2万株も買ってしまった、吉井は大ピンチだ。
1万株は現金だからいいが、残り1万株はすべて借金だから大変だ。実際、吉井はソニー入社後3〜4年は、この借金のため給料のほとんどを銀行に入れなくてはならないという状況で、「あいつは、30年間も銀行でコツコツやってきたのに、その退職金をつぎ込んだ上、借金まで抱えて買った株が、半分になってしまったそうだ」と、元いた銀行の仲間から、散々馬鹿にされてしまった。2万株の株主の吉井でさえ、こんな状態である。その大もとたるソニーに至っては、もっと深刻だ。
こうしたソニーと自分自身の事情を抱えて、いよいよIBMに出かけようという直前、銀行から連絡が入った。「そろそろ担保切れになりますので、株価が 300円になったら売らせてもらいます」と言うのだ。もう万事休すである。「仕方がないな」。あきらめ半分、残念半分の気持ちで、吉井は米国に旅立った。
訪ねて行ったIBMは、吉井の予想をはるかに超える大会社であった。用件は昼食でも食べながら聞こうということになった。ところが驚いたことに、この会社には役員用の食堂がある。しかも、各クラスごとにある。そうした立派な食堂の1つで、IBMの会長を待つ間、吉井は「うまくいくだろうか」と、ますます心配になっていた。それでも事情が事情であるだけに、ここが頑張りどころである。
「ソニーの株を買わないか。なぜ買ったほうが良いかというと……」。食事の間、そのことを懸命に話した。「そういう話なら……」と言って、先方はインターナショナルセクションの財務担当者を呼んでくれた。そこで話は決まった。その頃、やや上向いていた株価を反映して、633円で50万株、3億円分もの株を IBMが買ってくれたのだ。
これで、ソニーは助かった。これをきっかけに、ソニーの株は見直され、また日本に外国人投資ブームが起こることになった。ちなみに、IBMがソニーの株を買うということで、ソニーの株価は一気に1000円台まで上がった。株価が急に上がったために、「ソニーは、外国資本に乗っ取られるのではないか」と心配する声が聞かれるようになった。「株価は業績の反映であるべきである。それに反して、これまでソニーの株価が非常に安かったことを、外国の投資家が指摘したに過ぎない。外資、外資と騒ぐが、業績の継続的な向上さえあれば、何も恐れることはないはずだ。外資が入ってくれば、それだけ日本も潤う。その意味では、日本人だから外国人だからと色分けするような鎖国主義を、資本主義経済に持ち込むこと自体が間違っている」。こうソニー側は説明して、世間の心配を吹き飛ばした。
ADRの発行に引き続き、外国人投資を国内他社に先駆けて行ったソニーの資本調達の歴史は、今や、そのまま日本の資本調達の歴史になりつつあった。
銀座ソニービルの完成、外国資本の導入と、明るいニュースの陰で、人知れず地道に研究・開発・改良に取り組んでいるグループがいた。ソニー独自の新方式カラーテレビ、クロマトロン開発チームである。
クロマトロンは1964年9月に完成、発表され、ソニービル内にもクロマトロンコーナーがつくられ世間の注視を浴びはしたが、製造コストがかさむことや、故障の多さから、いまだに量産に踏み切れないでいたのだ。クロマトロン担当者を苦しめていた、発明者のローレンス博士の教科書にも書かれていなかった問題とは何か。
その1つは、高電圧による障害と、それを防ぐための絶縁作業の難しさである。前面パネル内側に垂直配列する蛍光体の細い線(ストライプ)の数は、人間の目で粗さが感じられないくらいの細さが必要になる。解像度に相当する270本ないし300本くらいは欲しいところだ。しかしそれだけ細くすると、その分、電子ビームを赤、緑、青色のどの蛍光体に当てるかをコントロールする色切り換えグリッド(電子ビームが通過する際に、加速させる働きもする)の針金の間隔も、非常に狭くならざるを得ない。そこには、電子銃から出た電子ビームをフォーカスさせるために、高電圧をかける。電圧をかけるからには、絶縁が必要になる。しかも、絶縁したものが高電圧に耐えうるものでなくてはならない。これには、どういう材料を使って、どういうふうに固定すればよいのか、なかなか良い解決法が見つからない。教科書に書かれていない難しい問題が、実験を重ねれば重ねるほど出てくる。
さらに、外から見た時、蛍光体の明るさが二倍明るくみえるように、蛍光面の裏側にアルミナイズド・バックというバックコーティングをする。このアルミが非常に薄い膜であることから、カラースイッチンググリッドにかけられた高い電圧の影響で、アルミが吸い寄せられてしまう。するとある部分がはげて、それがあちこちにくっ付いてしまう。そうなると、せっかく絶縁してあるのに、そこでショートしてしまい、スイッチングができなくなってしまうといった非実用的な電気的欠陥が、ボロボロと出てきてしまう。
加えて、クロマトロンではシャドーマスク方式に比べて、蛍光体の焼き付けが非常に難しい。シャドーマスク方式は光学的なやり方で、写真の露光のようにして焼き付け、それを現像して蛍光体のスジを付ける方法で行うのに対し、クロマトロンでは本物のブラウン管にして組み立てて、電子ビームを用いて焼き付けを行う。これは、非常に時間がかかる。仮に1本の蛍光体のストライプを焼き付けるのに40分かかるとすると、その操作だけに1時間はかかってしまう。そうすると、1台のプリントの機械で24時間フル操業したところで、1日たった24本しかできない計算になる。これを勤務時間内の8時間でやるとなると、今度はたくさんの数のプリンターがいることになる。どちらにしても、非常に生産性に乏しいことに変わりない。
それやこれやで、「これだ!」と言って、とても胸を張れるようなものはできない。一方、研究費は増えていく。クロマトロンの開発責任者である吉田、あるいは大越、宮岡といった関係者の苦労は、そばで見ていても気の毒なくらいである。これでは、とてもソニー第5の製品とは言えない。それどころか、これはクロマトロンならぬ“苦労マトロン”である。
「諸君、シャドーマスクを、もういっぺん考え直さなくてもいいかねぇ」。ある日、役員会の席上で、井深は冒頭からこんな発言をして、皆の意見を聞いた。強気で鳴らした井深が、こんな弱音を吐くようになった。それほど、ソニーはクロマトロンで追い込まれた状態になっていたのだ。
クロマトロンを作れば作るほど、損失が大きくなっていく。それに、これ以上開発費をつぎ込んでいったら、それこそソニーは、クロマトロンと心中ということにもなりかねない。
「こんな事態になったのは、私の責任だ」
クロマトロンの失敗は、社長である自分の責任だ、と井深は一途に思い込んでいた。しかし、井深にも意地がある。それは経営者としてではなく、技術者としての意地だ。それに、今こそ落ち込んでいる技術者たちの支えになってやらなくてはならない。「クロマトロンに代わる方式を探ってみよう。今度は自分自身が開発リーダーとして最初から最後まで立ち合う」というのが、井深流の責任の取り方であった。これに対し、盛田が援護射撃をしてくれた。「お金のことは私がすべて考えます。井深さんは思う存分やってみてください」。井深にとって、こんなありがたい協力者はいない。その日から、井深の姿は常に最前線にあった。
1966年の夏、吉田が渡米した。1年前に米国のGE(ゼネラル・エレクトリック)が発表した「ポルトカラー」の視察を兼ねて、市場調査を行うのが目的であった。ポルトカラーというのは、シャドーマスクとインライン(横1列に並んだ)配列の3電子銃を組み合わせた13インチの小型カラーテレビだ。これには吉田も大いに興味を抱いたが、残念ながらこれは小型テレビ向きの特殊技術で、大型に使うには無理の多い技術であった。
それよりも、吉田を驚かせたのは、RCAによるシャドーマスク改善の進み具合だ。画面が格段に明るくなっている上、月産2万台の量産ペースに乗っている。「これは、もう完成品だ」。月産1000台程度のクロマトロンのことを考えると、吉田はがく然とする思いであった。「1966年中に量産のメドが立たないようであれば、クロマトロンはあきらめて、シャドーマスクに切り換えることも考えなくてはならん」。吉田の報告を受けて、ソニーのトップもいよいよ本格的にシャドーマスクへの切り換えを検討し始めるようになった。
「今さらRCAの軍門に下るなんて……」と吉田は、割り切れなかった。クロマトロンに関わった人たちの5年間の苦労を無にするような終わり方はしたくない。何とか現状を打破し、ばん回する手はないか。吉田にいい考えが浮かんだのは、そうした焦りが焦りを生んで、もうどうしようもないと思われた時であった。
「1本の電子銃で、電子ビームを3本走らせることができるかどうか、実験してみよう」
吉田は、GEのポルトカラーからヒントを得て、電子銃の改良を提案したが、現場の受け止め方は意外に冷ややかなものであった。これは始めから、実現性がないことを証明するための実験のようなものだ。「気は確かなんだろうか」。この実験を、半ば業務命令のような形で吉田から指示された宮岡も、そう思った1 人であった。
ところが、ここに常識では考えられない、思いもかけない好結果が出た。実験の結果を聞いた井深は「これは、筋がいい」という感じを持った。「これでやってみるか」。さっそく宮岡が呼ばれ、「あれは、実用になりそうかね」と、井深から質問を受けた。はっきり言って、実用になるかどうか分からなかった。しかしその日、宮岡にはどうしても「かなり、いけると思います」と言わざるを得ない事情があった。実はその日、宮岡がチェロを担当している市民オーケストラの練習日なのだ。早くしないと練習が始まってしまう。相手は井深である。「できない」とか「分からない」と言ったら、その説明をしつこくさせられて、放してもらえそうもない。ここは取りあえず、「できます」と言って、帰らせてもらうのがいちばんよい方法であった。
1966年の暮れ、新電子銃の原型ができ上がった。これを、当時できていた7インチのクロマトロンに入れて実験をしたところ、今までにない“カチッ”とした画面が出てきた。ようやく前途に明かりが射してきた。
続いて、このインライン配列の3ビーム単電子銃を、シャドーマスクに組み込んで、どれほどの効果があるかという実験が行われた。結果は上々であった。しかし、この新電子銃をシャドーマスクと組み合わせたのでは、せっかくの新技術が埋もれてしまう恐れがある。それどころか、かえってソニーのシャドーマスクへの方針転換が目立ち、クロマトロンの失敗が強調されることになりかねない。
ソニーのイメージを保ちながら、シャドーマスクの作業性の良さを取り入れ、シャドーマスクよりもさらに良い画質特性を持つ方式はないものか。技術陣の苦悩の日々が、また始まった。この間、井深は「うちの技術者は、世界一だ。できないはずがない」という思いと、「もしかしたら、駄目かもしれない。そうなったら早めに軌道修正しなくては……」という相反する考えを常に抱えていた。しかし、開発技術者の前では、不安感や焦りを見せるわけにはいかない。心がけて毅然とした態度を取るようにした。そんな井深を見て、現場で働く者たちは、何度元気づけられたことか分からない。
突破口を開いてくれたのは、大越だった。「アパチャーグリル」の概念に到達したのだ。これは、薄い金属板に、写真化学的に細い縦孔をたくさん並べて開けたもので、それを金属枠にピンと張り付けた構造を持ち、電子ビームの透過率は20%。シャドーマスクに比べて5%も明るい。しかも、すだれ状の構造がクロマトロンにも似ている。しかし、「これは、いい」と思ったのも束の間。またしても実用化の段階で問題が発生した。アパチャーグリルの金属縦格子が振動を起こし、電子ビームのねらいが定まらないために、色むらが生じてしまうのである。 ピンチに立った大越を救ったのは、井深であった。細いピアノ線を水平方向に張って振動を止めるという、実にシンプルなアイデアであったが、これで確実に振動は止まった。 ブラウン管用ガラスは、大越が自分で型を作った。普通だと図面を引いて、専門の型屋に発注する。それを大越は「こんなのは、自分でできるよ」と、作ってしまったのだ。
1967年10月15日の夕方近く、注文していたブラウン管ガラスができ上がってきた。研究室のある一帯は、異様にざわめいていた。これから、新型カラーブラウン管の組み立てを行うのだ。電子銃を組み込む者、アパチャーグリルを取り付ける者、蛍光面を塗る者、作業が始まると、皆ものも言わずに、黙々と自分の分担をこなしていった。最後に、ブラウン管のガス抜きを行い、新しいブラウン管が完成した。その時、外は夜が明けて、もうすっかり明るくなっていた。
さて、これに電気回路を組み合わせ、1台のカラーテレビが誕生した。調整を終え、電源が入れられた。美しい色、明るい画面。誰1人として口を開く者はなく、食い入るように画面を見つめていた。完成の知らせを聞いて、井深たちも駆け付けてきた。「皆さん、ご苦労さんでした……」。激励の言葉をかけてやりたいと思うものの、井深はそれだけ言うのが精いっぱいだった。もう後は声にならない。思えば長い回り道をしたものだ。
この新しいカラーテレビは、「トリニトロン」と命名された。キリスト教でいうトリニティ(神と子と聖霊の三位一体)とエレクトロン(電子管)の合成語である。
1968年4月15日、銀座ソニービルにおいて「トリニトロン」の発表会が行われた。内外の記者団からも予想以上の反響を得て、発表会は無事に終わるかに見えた。ところが、井深が、ここでソニー関係者の誰もが想像もしなかった発言をした。「発売は10月中、年内に1万台の量産を行う」と言うのだ。「冗談じゃない」。居並ぶ技術者たちは、わが耳を疑った。まだ、やっと10台程度の試作品ができたばかりというのに、これから半年の間に量産まで持っていくのは至難の業だ。「このオヤジめ!」。吉田は思い切り、井深の顔をにらみつけた。
そんな吉田たちの心中を知ってか知らずか、井深は1人、晴れ晴れとした顔をして澄ましていた。しかも、その顔には、「お前たちなら、きっとやれるさ」と書いてあった。