SONY

第1話 晴れて国際規格に

 ワープロシステムを売るためには、3.5インチMFDというメディアが仲間を増やして生き残らなければならない。「社内用途だけにこだわっていてはだめだ。3.5インチMFD用のドライブを社外のコンピューター機器メーカーにも使ってもらおう」。つまり、OEM供給に乗り出して、仲間を増やそう、という作戦だ。

 しかし、この頃、ソニーブランドでない製品を生産して売るというビジネスは、原則的に禁止という方針が出されていた。開発を指揮していた加藤は井深、盛田たち経営陣を必死に説得して認めてもらった。
 英文ワープロを発表した翌年の春、他社製品に使ってもらうコンポーネントとして、3.5インチMFD用ドライブの外販ビジネスが始まったが、社内ではSONYの4文字の付かない製品づくりへの抵抗がなかなか消えなかった。

 「一人ひとりの意識を変えていかねば」。1983年4月に、コンポーネント・ビジネスがシステム開発部から独立して「メカトロニクス事業部」として発足すると、事業部長となった加藤は、OEMビジネスに情熱を持てるようなカルチャーと価値観をメンバーが身につけるよう、環境づくりを心がけた。

 そんなある日、加藤たちの所に思いがけない申し出があった。何と、一大ハイテク開発ゾーンとして名高い米シリコンバレーの中でも、「先生」と尊敬されている、コンピューター・計測機器メーカーのヒューレット・パッカード(HP)社が「我々のコンピューターを、あなたたちの発表した3.5インチMFDでやりたい」と言ってきたのである。1982年のことだ。

 彼らの要求を反映させた、3.5インチMFD用ドライブの開発をともに進めていく。彼らはすごい「教え魔」だった。次第に、「生徒」であるソニーと、「先生」であるHP社の技術者の間には、強い絆が生まれた。その信頼関係の中で、3.5インチMFD用ドライブは鍛え上げられ、コンピューター・メーカーの使用に耐えられる性能のものへと育っていった。

 その後、他社からも似たようなフロッピーディスクがいろいろ発表され、激しい標準化競争が始まった。まず、日本で、ソニーの発表から遅れること1年、松下電器・日立製作所・日立マクセルの3社が「コンパクト・フロッピー」という3インチの競合規格をぶつけてきた。ソニーはこの別規格を大歓迎した。なぜなら、彼らのものは、同じプラスチックケース入りで3インチ、記憶容量は半分。「もうこれで、なぜプラスチックケースに入れたのかを説明しなくてよくなるし、対抗馬が出たお陰でいかにこちらの性能が優れているか説明しやすくなった」と強気であった。3.5インチ、3インチに続き、3.25インチ、4インチなどの新しい規格が次々に発表され、乱立模様だったが、結局、最後まで残ったのはソニーの3.5インチと松下連合の3インチ。しかし、ソニーは、強力な味方を得た幸運と、根本的な仕様の良さで、苦しい標準化競争を勝ち抜いた。

 アメリカ、日本でそれぞれ標準規格として認められ、ついに国際規格として各国の規格の追従を勧告指示するISO(International Organization for Standardization)の認定規格となり、晴れて「国際規格」としてのお墨付きをもらった。1984年夏のことであった。

 国際標準化の進む中、3.5インチMFDは、HP社に続き、急成長する新進気鋭の米コンピューター・メーカーのアップル社にも採用された。彼らの「薄くて低価格のドライブを、我々のパソコン用に量産供給してほしい」という要求をきっかけに、フロッピーディスクドライブの自動化生産ラインがオーディオ・システム(現ソニー・コンポーネント千葉)で稼働し、量産技術も鍛え上げていった。やがて、米IBMも自社のPSシリーズへの3.5インチMFDの採用を決めた。こうした名だたるコンピューターメーカーとのOEMビジネスの成功の連続は、3.5インチMFDの信頼性の高さを確実に証明していった。

第2話 「夢のリチウムイオン二次電池」 合弁事業から独立独歩の道

 1975年2月、米国ユニオン・カーバイド社との合弁で、設立された電池会社ソニー・エバレディ(株)は、順調に成長を続けていた。ユニオン・カーバイド社が電池の開発を担当し、ソニーは製造と販売および日本市場の開拓などを行う、という契約だった。

 1984年1月、設立時にユニオン・カーバイド社との交渉で活躍した戸澤奎三郎が、会長としてソニー・エバレディに迎えられ、自分で苦しみながら立ち上げた電池会社の経営を任されることになった。「電池」の中身については全くの素人的知識しか持っていなかった戸澤は、猛勉強を始めた。目標は、充電によって何度でも使える「二次電池」の開発だ。「繰り返し使える電池をやりたいな」。そんな言葉を井深や盛田が口にし始めたのは、いつの頃からだっただろうか……。

 当時、国内の乾電池業界では、電池の材料として使われている、廃棄時に環境汚染を引き起こす「水銀」問題が取り沙汰されおり、安全性確保が電池メーカーの懸案だった。「捨てないで繰り返し使える電池があれば……」。ますます戸澤の思いは高まった。

 戸澤らは、以前、ユニオン・カーバイド社のバッテリー部門の人が、「これからの電池の材料には『リチウム』が有望だ」と語っていたのを覚えていた。確かにリチウムという金属は元素番号3番で軽いし、高電圧が得られ、二次電池の材料としては優等生である。
 しかし反面、金属のままのリチウムは、水分に触れると爆発する「暴れ者」という欠点も持っていた。そのため、当時、ごく小さな金属リチウム系のボタン電池があったが、大半が危険物規制対象として扱われていた。三洋電機や松下電池など各電池メーカーは、ニッケル系などを使った二次電池の開発そのものには積極的でも、リチウム系の二次電池となるとおよび腰だった。ユニオン・カーバイド社もご多分にもれず、「もっと研究に力を入れてくれ」と再三頼んでも話に乗ってくれない。「リチウム二次電池」への思いと、合弁規定という制約の間で揺れているうちに、ある事件が起こった。

  1986年、年頭の挨拶を社員の前で済ませてほっとした戸澤の下に、ユニオン・カーバイド社からびっくりするような電報が届いた。「ユニオン・カーバイド社は、バッテリーを含む一般向け事業のすべてを売却することを発表した」というのである。実は、ユニオン・カーバイド社は、インドの工場での爆発事故が原因で、多額の補償義務を負い、経営悪化に陥っていたのである。
 もともと、ソニー・エバレディは、ユニオン・カーバイド社の技術援助を条件に生まれた会社である。もし電報の内容が本当ならば、技術援助の本体がなくなってしまうし、ユニオン・カーバイド社の持つソニー・エバレディの半分の株式はどうなるのか。「何としても、売却を止めなくては」。戸澤は、ソニーの法務部のスタッフと一緒に直ちにアメリカに飛んだ。

 ユニオン・カーバイド社との交渉は、両社側の弁護士を同席させて3日間続いた。破談や訴訟になりかねない危機を何度か乗り越えて、最後は、ソニー側が登録商標の「エバレディ」ブランドを放棄した上で、ユニオン・カーバイド社の出資分を全額買い取って合弁を解消し、電池事業を続ける、ということで話はまとまった。
 1986年3月、「(株)ソニー・エナジー・テック」と社名を新たに、再出発した。井深はこの社名に、「随分大きい名前を付けるね。原子力でもやるのかね」と戸澤たちをからかった。

 ユニオン・カーバイド社の支えをなくした「ピンチ」を、独立独歩で二次電池開発を進める「チャンス」に変えよう、と戸澤は自らプロジェクトリーダーになり、「リチウム二次電池」の開発・製造・販売に向けて一丸となって走り出したのである。

第3話 高い安全性と高エネルギー、長寿命の実現

リチウムイオン二次電池
(サンプル)

 戸澤は旧日本海軍の砲の命中法からヒントを得て、プロジェクトを進めようと考えた。三門の砲を少しずつ距離を違えて撃つことにより、標的はより速く、高い確率で仕留められる。同じように、リチウム二次電池という一つの目的に向かって、いくつかの狙いを変えた研究をバラバラにスタートさせて同時進行させる。このほうが、一つが駄目なら次、というように順に進めていくよりも早くて確実というわけだ。しかし、このやり方だと「ヒト・カネ・モノ」という研究開発資源は余計にかかる。ここに戸澤が自らプロジェクトリーダーになった理由があった。自分の立場なら、これらの投資を決断して周りを説得し、「責任は、私がとる」と、スタッフに心おきなく研究に専念させられるからだ。戸澤に直結するプロジェクト組織としての正式発令が出たのは、1987年7月だった。

 最初異なる材料を使い、6つあった研究テーマは、毎月開かれる検討会議でふるいにかけられ、次第に絞られていった。「夢の二次電池」に向けての試行錯誤は続いた。
 「できたぞ」。とうとう一つの研究チームが喜びの声を上げた。
 リチウムはリチウムでも、そのチームのつくった二次電池内の電極には、安全性に問題のある金属リチウムやリチウム合金は一切使われていなかった。彼らは、“特殊リチウム化合物”を正(+)極に使い、負(-)極には炭素材料を使った。この両極間を「リチウムイオン」が行き来し、電気エネルギーを蓄積・放出するという仕組みである。もはや水を恐れることもなく安全性は極めて高い。充電して繰り返し使用する、サイクル特性も1000回以上と、単1形のニッカド蓄電池の約1.5倍。また、積算エネルギー量、つまり1000回ギリギリまで使って得られるエネルギー量は、同形ニッカド蓄電池の約4倍、充電できない一次電池のアルカリマンガン乾電池に換算すると、約1300個分だ。すごいのは「寿命」だけではない。エネルギー密度、公称出力電圧などもそれぞれニッカド蓄電池の3倍と、性能も明らかに向上した。この新しい電池を「リチウムイオン二次電池」と名付けたのは戸澤であった。

 この高エネルギーの二次電池の電極、および電解液の材料は、それこそプロジェクトメンバーがしらみ潰しにあたり、実験を繰り返した結果得られた収穫だった。たとえば、負極に使う「炭素」もいろいろな種類があり、その結晶性の違いによって、電池の良し悪しも決まってくる。炭素は、高分子(分子という、物質を構成する最小の単位の量が大きい物質のこと)材料を焼くことによって得られる。材料開発の担当者は、「もっと良い炭素はないか」と、来る日も来る日も自分たちで、「備長炭」から「活性炭」に至る炭素材料や、さまざまな高分子材料を焼き続けた。

 こうして生まれたリチウムイオン二次電池だったが、発表前にいくつか解決しなければならない問題があった。使用する炭素材料やリチウムイオン化合物の原理の特許の取得、アメリカの危険物取扱の除外申請などがそれだ。戸澤たちは飛び回ってこれらの問題をあっと言う間に解決してしまった。
 また、早くからソニー・エナジー・テックの生産技術の担当者を中心に、ソニーグループの総力を挙げて、量産への準備が進められた。そして、発表前の1988年には、すでに月産10万個の生産設備が、福島県・郡山工場内に準備されたのである。

 1990年2月に製品化を発表。続いてサンプル出荷が開始され、翌年から本格的な量産が行われていく。

 この二次電池が1992年に8ミリカムコーダーの「CCD-TR1」に搭載されると、評判は次第に高まり、競合電池メーカーも開発に腰を上げ始めた。
 そして、この高エネルギー密度、長寿命、高安全性を持つリチウムイオン二次電池の用途は広がっていった。小型液晶テレビをはじめ家庭用AV機器や、携帯型パソコン、自動車・携帯電話端末、PHS(パーソナル・ハンディホン・システム)などの携帯情報機器に次々と採用されるようになり、「リチウムイオン二次電池採用」は機器にとっての宣伝文句となっていった。ソニーは、先陣を切って開発に成功した後、高い市場シェアを維持し、リーディング・カンパニーとしての地位を固めていった。

 この先進技術の実用化に対し、1994年4月、電気化学協会から優れた技術に授与される「棚橋賞」を、続いて1995年2月には、生産工学、生産技術の分野で国内では最も栄誉ある「大河内賞」を受賞した。そして、同年9月には、1992年から開発を進めてきた電気自動車用の大型リチウムイオン二次電池モジュールの開発に成功し、リチウムイオン二次電池の新しい市場開拓、性能向上の大きな可能性を世に示したのである。また、その後ポータブルタイプのコンピュータにも大量に採用されるようになった。