ソニーのデジタル技術、そして、デジタル技術を必要とするコンピューターへの取り組みは、意外に古い。
1967年に発売したSOBAX(ソバックス)という電卓が、いわばソニーのコンピューターの芽生えとなるものだったが、1972年に他社との価格競争の中で電卓ビジネスからの撤退を決意し、その芽は摘み取られた形となった。トランジスタをスイッチング素子に利用したSOBAX自体は、ポータブルコンピューターへの取り組みへのきっかけとなったものの、ソニーの中でビジネスとして育たなかったのである(第1部第13章2話参照)。
世の中では、1971年にビジコン社と米インテル社がマイクロプロセッサーを共同開発。その後パーソナルコンピューター(以下パソコン)が登場するなど、デジタル化傾向が着実に進んでいくのだが、ソニーの経営陣の多くは、「我々のエレクトロニクスビジネスは、たくさんの人に楽しんでもらえるAV(音響・映像)機器の開発が中心だ」という考えを強く持ち、コンピューター開発に向ける力を抑えがちだった。
しかしながら、1976年に社長に就任した岩間は、「コンピューターの分からない会社は、90年代に生き残れない」と未来の技術動向を察知していた。 1975年にはパソコンが登場し、1978年、東芝は世界初の日本語ワープロを発表した。ソニーでも岩間の下で少しずつコンピューターの開発が始まり、 1970年代末には、オフィスオートメーション(OA)分野およびマイクロコンピューター(MC)分野での、コンピューター関連機器開発を始めた。
やがて、OA分野で、英文ワープロシステム「シリーズ35」、そしてポータブルサイズの液晶ディスプレイ付きタイプライター「タイプコーダー」を 1980年12月にアメリカ向けに発表。MC分野では、1982年9月、画像と相性の良いマイクロコンピューター「SMC-70シリーズ」を世に送り出した。一方、一般家庭用パソコン分野でも、米マイクロソフト社開発の「MSX規格」に対応した「ヒットビット」を商品化した。1982年は、遅ればせながら OAが日本でもブームになった年である。当時、ファクシミリ、パソコン、ワープロ、コピーは「OA四種の神器」と呼ばれた。
どれも、ソニーらしい小型追求の精神が盛り込まれていた。特に、タイプコーダーには、“ノートブック・パソコン”のはしりともいえる画期的なアイデアが活かされ、「これは10年、世に出るのが早すぎた」と、後に評されたほどである。また、英文ワープロ用の記録メディアとして開発された小型大容量の「3.5インチMFD(マイクロフロッピーディスク)」は、OAの垣根を越え、コンピューター用記録メディアとして国際規格となる優れたものに仕上がるなど、あちらこちらに、ソニーらしい目新しさが光った(3.5インチMFDは、この後の第3話で紹介)。
面白いのは、どの機器もコンピューター本体ではなく、「ソニーの持つ磁気記録技術、光ディスク技術などのAV技術の強みを活かした」コンピューター関連機器を志向して開発されたことだった。あくまで、ソニーのビジネスの中心はAV技術であり、その当時、そこから離れることを歓迎しない社内の風潮があった。
一度は、社内のばらばらの組織で進んでいたこれらのコンピューター関連機器を一つの部門に結集し、AV機器などと一緒に「AVCC(Audio, Video, Computer and Communication)の技術を組み合わせたシステムビジネス」を展開していこうという試みもあった。しかし、当時の「ニューメディアブーム」の波の中で、関係者の必死の取り組みにもかかわらず、ニーズに合ったソフトウエアも含めてのシステム展開が必要なこの分野で、SONYの4文字は確立できず、 80年代を通して生まれたもろもろのコンピューター関連機器は、姿を消すか、鳴かず飛ばずの状態となってしまった。
このような状況の中で、1987年1月、勢いよく滑り出したソニーのコンピューターがあった。事業本部から独立し、社内ベンチャービジネスの形で短期間で開発した「NEWS(ニューズ)」である。これは、CAD(Computer Aided Design)など設計を自動化するためのエンジニアリングワークステーション(EWS=Engineering Work Station)だ。「コンピューターには手を出すな」という社内の不文律を無視して、11人のエンジニアが新鮮な感覚で開発したこのNEWSは、そのコストパフォーマンスの良さから、日本の大学や企業の研究者が、設計や編集、ソフトウエア開発のために利用する高性能コンピューターとして受け入れられ、急速に売り上げを伸ばした。その当時、日本でも多くのエンジニアに使ってもらえるソフト開発用ワークステーションを作ろうという国家プロジェクトが進行中であり、ソニーがこれに先駆けた形となった。
最初にNEWS開発を思い立ったのは、コンパクトディスクの開発時に誤り訂正符号技術など、デジタルオーディオ技術で腕を振るった土井利忠(どい としただ)である。所属する部門で手がけるコンピューター関連機器ビジネスが苦労を続ける中、彼は世に出始めたばかりの32ビットのCPUを使ったコンピューターの夢を、密かに温めていた。しかし、事業本部は赤字の上、数々のプロジェクトを抱えていた。自分の考えをまとめて上司に提出すると、思っていたとおりいい顔をされない。それでも諦めずに、当時社長の大賀を訪れた。意外に話は早かった。「君の思うとおりにやりなさい。ただし、社内ベンチャーという形だよ」。事業本部の基本方針に沿わない以上、組織面でも予算面でも大きなリスクは取れなかったのだ。
ともかく、ゴーサインがもらえた。土井は、若手エンジニア4人を連れて、事業本部から「家出」し、これに、開発研究所の7人を加えた総勢12人で逆風の中、船出した。1985年9月のことである。プロジェクト名は「ICKI(イッキ)」。プロジェクトを一気に完成させよう、粋(スマート)なコンピューターをつくろうというメンバーの願いが込められたものだった。
「32ビットCPUを使用、短期間で完成、用途を限定しないもの……」と、実は当初、土井は元いた事業本部で進行中だったOA用のコンピューターの延長線上に、新しいコンピューターの姿を描いていた。しかし、土井が選んだエンジニアたちは、彼の言うことを聞かなかった。彼らは、当時自分たちの仕事用に取り合うようにして使っていた、米DEC社のスーパー・ミニコンピューター「VAX」に代わるエンジニア用のワークステーションをつくりたいというのである。「自分たちが使うコンピューターをつくりたい」。これに気付いた土井は考え込んだ。「これは厄介な問題だ」。ソニーの得意とするAV技術とはあまり関係のない、標準型のコンピューターだからだ。開発が終わっても、商品化してくれる事業部からはソッポを向かれる可能性が大である。しかし、目を輝かせているメンバーを見ているうちに土井の心も固まった。
そこからは速かった。ハードウェアの原型が半年、OS(基本ソフト)の移植で半年。めざすコンピューターはただ1つ、基本思想は「開放型分散処理」だ。つまり、メーカーの異なるコンピューター同士であってもネットワークに相互接続でき、接続されたコンピューター全体で作業を分担して、全体として大型コンピューター並みの処理能力を発揮するネットワークシステムが構成できることであった。「もはや、1つの大頭脳CPUの命令実行にアクセスする“メインフレーム・システム”だけでなく、必ずや、強力なユーザーインターフェースを持つ頭脳を各人の机の上に置いて、自由に結び合うワークステーションの“オープンシステム”への需要が高まるはずだ。大手の米IBMに対抗する手段はそれ以外ない」、土井はそう確信していた。「エンジニア1人に1台のソフト開発支援マシン」、この基本方針に沿って、大きさ、価格などの検討が重ねられた。
わずか1年の開発期間を経て、1986年10月に製品発表、翌年1月にNEWSは発売を迎えた。OSにUNIX(ワークステーション用として主流のOSの名称)を採用し、パソコン並みの大きさで、従来のスーパー・ミニコンピューター以上の性能を、95万〜275万円という超低価格で実現した。当時の主流のワークステーションの平均価格は1000万円くらいだった。発売当初から爆発的に売れ、最初の量産試作までにかかった4億円の開発費は、わずか2ヵ月で回収した。土井の率いたベンチャーチームは、スーパーマイクロ事業本部に昇格し、DTP(Desk Top Publishing:編集やレイアウトにコンピューターを使って出版物をつくること)やCAD/CAM(Computer Aided Design/Manufacturing:コンピューターを利用して設計し、製造の段階にもコンピューターを使うこと)分野にも進出するなど大変な勢いを見せた。
しかし、世の中もNEWSに追いつき追い越せと競争は激化する。米サン・マイクロシステムズ社が業界標準の技術を開発して爆発的な強さを発揮していたアメリカでは、NEWSを思うように普及できず、そして、ヨーロッパでの販売も苦労続きであった。
NEWSが、ソニーの基幹ビジネスに育っていく道のりは遠かった。しかし、1歩ずつであるが着実に前進した。情報、通信経路のデジタル化が進む中、科学技術演算や、CAD/CAM分野に加えて、NEWSを「VOD(Video On Demand:ユーザーの要求により、指定されたビデオ映像をテレビ画面に表示する)システム」、「インターネット・システム」にサーバーとして組み込んで活用していこうというビジネス戦略も積極的に繰り広げられた。日本初のVODシステムをNEWSを使って実用化、1995年に公民複合施設「アクロス福岡」へ納入するなど、その後も確実に受注を増やしていった。
「90年代はコンピューターが分からない企業は生き残れない」
1975年頃、当時社長の盛田と同副社長の岩間は口癖のように、そう言っていた。東京・晴海で開かれた、あるコンピューターショー会場へ向かう車の中でも、岩間は同行したテレビ事業部の加藤善朗(かとう よしろう)にそうつぶやいた。「フロッピーディスクならうちの技術でもできますね。5メガバイト以上の容量にすれば文書と画像の両方が処理できるものになりますよ」と加藤が言うと、岩間は「社内には、コンピューターにもフロッピーディスクにも、いろいろなアレルギーがあるんだよ」と、寂しそうにつぶやいた。当時テレビ事業部に属する加藤は、「そうなのか」くらいにしか思わず、まさか数年後に自分が関わることになろうとは夢にも考えていなかった。
それから4年後の1979年、岩間は新たにシステム開発部をつくり、「コンピューター関連装置をつくってくれないか」と加藤に言ってきた。「ソニーは、アメリカでOA関連機器のビジネスもしている。そこに焦点をあてた英文ワープロはどうだ? これならソニーの強みの高精細のブラウン管技術が使えるし、磁気記録技術を使ってフロッピーディスクも自由にできるよ」。実は、岩間はこのシステム開発部をつくる前に、加藤を社内のコンピューター化を推進するコンピューター部へ異動させていた。「今思えばこのために勉強させたんだな」。岩間の作戦が何となく読み取れた。
こうして「OA分野でのコンピューター機器」をつくろうと、システム開発部はスタートした。社内の別の開発部が、フロッピーディスクと似たような大容量のプラスチックケース入りのビデオ用メディアをつくっていたので、そこから数人、そして古巣のコンピューター部から移った数人、これに新入社員を加えて総勢25人の寄せ集め部隊だった。
加藤たちは、今までいたコンピューター部ではユーザーの立場だった。いろいろとコンピューターやフロッピーディスクに対し、日頃から「使いにくいなー」などと不満を抱いていた。彼ら自身の、「こんなものが欲しい」というイメージからすべては始まった。何しろコンピューターに関しては素人集団だったので、難しさも分かっていない、怖いもの知らずであった。
ソニーにおけるフロッピーディスクシステムの開発は、こうして英文ワープロの1コンポーネント(システムの一部の部品)として始まった。世の中では、薄い樹脂製の黒色ジャケットに磁気シートを収めたフロッピーディスクが主流で、1976年に米アラン・シュガート社が開発した直径5.25インチタイプが、米IBM開発の8インチタイプにとって代わろうという時期だった。
「もっと小型で扱いやすく、かつ記憶容量の大きいメディアがいい。磁気シート面に手が触れないし、ホコリも入りにくいから、プラスチックケースでいこう。大きさは3インチくらい」。ドライブ(駆動装置)のイメージは、ボール紙で「こんな感じではどうか」と10センチ四方の薄い箱をつくってみて、「これでいい、これでいい」と無邪気に喜んでいた。
しかし、実際にプラスチックでケースをつくると、従来のケースよりも、どうしてもぽってりと厚くなってしまう。
「取りあえずシャッターやゴミ取り装置のことは忘れ、プラスチック成形技術ぎりぎりの薄さを追求してみよう」と再度つくってみると、3ミリくらいの薄さにできた。できたはいいが、問題が次々に現れた。まず薄いケースは、保存試験をすると曲がってしまう。ドライブに入れた時、ケースは真っすぐで平らでなければいけない。ここで頭を切り替えた者がいた。「最初から凸レンズのように中央が膨らんだ状態のケースにしておけばいい。ドライブ装着時に、ぎゅっと押さえつけて真っすぐにする構造にしておけば、少しぐらいフロッピーがゆがもうが、影響ないじゃないか」。なるほど、そのとおりだった。
また、シャッター自動開閉のためのバネが入らない。「まず薄さだ。バネは後で考えればいい」。加藤たちは手動式シャッターで最初の商品をつくってしまった。その後、洗濯挟みのバネのような機構を考え出して、どうにか3.4ミリの薄さに収めた。
ケースの中の円形の磁気シートも、データを書き込むトラック数を従来の他社製の倍にすることで、小さいながら当初の目標であった1メガバイトの高記録密度を達成した。直径約8.6ミリの中に幅の狭い円形トラックを70本以上も詰め込んだのだ。しかし、この磁気シートは記録・読み取り時に、ケース内で高速回転する。この時、ヘッドは狭いトラックを正確に追わなければいけない。ここで、磁気シートの中央部に、ちょうど10円玉のような金属製ハブ(軸の中央部のこと)を付けることを考えた。このハブに開けた穴に、ドライブのモーターの軸を固定して、しっかり「位置決め」を行えるようにした。こうすれば、ただシートの中央に開けた穴だけで位置決めを行っていたこれまでの5インチフロッピーディスクよりも、はるかにトラッキング(記録されたトラック上をヘッドが正しく追跡すること)精度が上がる。また、硬いプラスチックケースに磁気シートが入っているため折れ曲がる心配も少なく、耐久性が上がった。
こうしてでき上がったのが、「3.5インチ・マイクロフロッピーディスク(MFD)」だ。厚さ3.4ミリのプラスチックケース入り。記録容量は1メガ(100万)バイト。それまでのフロッピーディスクの常識を塗り替える新しい記録メディアだ。
1980年12月、ソニーはこの3.5インチMFD用ドライブが組み込まれた英文ワープロシステム「シリーズ35」およびタイプコーダー(ワープロ機能を備えたタイプライター)などを携え、OA化が急速に進むアメリカ市場へ参入することを発表した。
岩間はこの時、社員にこう呼びかけた。「今回発表の機器は、ソニーが長年培ってきた映像技術、磁気記録技術、半導体技術に最新の技術を加えて完成したものです。オフィス・オートメーションの中で、新しい分野を切り開くものと期待しています。これが大きなビジネスに成長するよう、皆さんのご協力をお願いします」
翌1981年秋、アメリカで、さらに1983年1月、日本でシリーズ35が発売された。