さて、サンディエゴ工場が完成し、「アメリカ生まれのトリニトロン」の生産が始まった翌月の1972年9月、「アメリカ生まれの社長」がソニー・アメリカに誕生した。新社長はCBSレコード出身で、1966年にはソニーに共同出資を交渉し、合弁会社CBS・ソニーレコードの設立に尽力したハーベイ・L・シャインだ。
シャインに社長職を任せた岩間は、翌年、会長職のまま帰国した。続いて、前任者の稲垣茂が退任した後、空席になっていた副社長のポストに、1976年、全米セールスマネージャーだったレイモンド・J・スタイナーを起用することが決められた。これで、社長と副社長がともにアメリカ人となった。
実は、現地人によるソニー・アメリカ社長としては、彼は2人目であった。
1966年にADR発行準備プロジェクトチームに加わっていたスミス・バーニー社のシュワルツェンバックが引退すると、盛田は彼をソニーに引っ張ってきてソニー・アメリカ社長の座を与えた。しかし、盛田が「ソニーを知り尽くしている人だ」と見込んだシュワルツェンバックは、1968年に急逝し、岩間が後を継いでいた。岩間も、盛田と同じく、数年間アメリカに常駐したものの、基本的には日米を行ったり来たりしながら、ソニー・アメリカ社長を務めた。
常駐する社長がいなくても、初期のアメリカの市場開拓が順調に進んでいったのは、1960年のソニー・アメリカ設立以来、現地で13年間しっかりと経営を支え続ける副社長の稲垣がいたからである。
当時の『フォーチュン』誌に、「稲垣は、10年間でアメリカ国内のソニーの販売量を、30万ドルから1億ドルに高めた。ソニーの成功した理由の一つは彼の起用である」と、アメリカで活躍する日本人として紹介された。
しかし、盛田は、「ソニー・アメリカをよりアメリカに根ざした会社にするためには、いつまでも、こうした日本人主体の経営に頼っていてはいけない」と、次のステップとして本格的な「マネジメントの現地化」をめざして、シャインたちを採用したのだ。
シャインの経営方針は単純明快、「利益を挙げる」こと。彼はアメリカ式の「徹底した合理主義」「徹底したバジェット・コントロール・システム(予算統制制度)」を導入した。
しかし、彼は、徹底した「短期的収益至上主義」だった。ある程度長期的視野に立って、企業の成長と価値を考えた販売投資——たとえば社員教育、宣伝広告費、サービス網の整備、部品倉庫の建設など——が必要と考える日本人社員や東京本社と、「最大限の経費節減こそ利益極大化の早道」と考える彼の間には、当然のように意見の対立が頻発した。
盛田は、シャイン流のやり方で会社を運営する許可を与えたものの、「将来に価値を生み出す財産をつくるための投資を控えて、目先の利益を追うことは、過去に築いた財産を食い潰すようなものだ」と、あの手この手でシャインに投資の重要性を説いた。
本格的家庭用VTR「ベータマックス」の導入の際も、コンセプトを訴え市場をつくるため、「惜しみなく宣伝広告費を使え」と説く東京本社に対し、シャインは「無駄だ」と言って、ガンとして首を縦に振らなかった。優秀だが強烈な個性を持った社長だった。
彼の出席する予算会議の部屋からは、唾を飛ばして議論をする声と、机をたたく音がよく聞こえた。
シャインはもちろんソニーという企業に魅力を感じ、彼なりの方法論で企業としての第一の目標「利益の極大化」を図ろうとしたのである。「それがモリタが自分に与えた役割である」と。確かに、彼のお陰でソニーの中に徹底したコスト意識が植え付けられた。ソニー・アメリカを近代企業の体質に変えたのは、シャインの功績でもある。
アメリカの経営スタイルでは、日本と違って、「経営最高責任者(CEO)」が会長を兼ねることが多く、「運営最高責任者(COO)」の社長よりも実権を持つ。岩間が日本に帰国しながら、依然として務め続けていたこの会長職も、やがて、アメリカ人の手に渡す試みがなされた。
1977年7月、岩間はシャイン、そしてスタイナーの二人のアメリカ人コンビを昇格させ、正式に経営をバトンタッチし、「会長・社長ともにアメリカ人」の経営体制をスタートさせた。
残念ながら、翌年1月のスタイナー社長の急逝、そして、2月のシャインの会長退任により、この体制は短命に終わったが、当時、日本企業の100%子会社で、会長・社長のポストにアメリカ人が就いたおそらく初めての例だった。
トリニトロン・カラーテレビの海外生産をはじめ、アメリカ人マネジメントを登用していく一方、日本より23倍も広いアメリカでは、1970年代、ソニー・アメリカを頂点とした販売網の整備が進んだ。
きっかけは、トリニトロン・カラーテレビの登場だった。
アメリカでの導入時には、当時副社長の盛田の強い意志で、200人ものアメリカの代理店や卸業者などセールス関係者を日本へ招いて、10日間にわたる「ソニー・コンベンション・イン・東京」が開かれた。
ソニーにとって、また当時の業界でも、初めての試みである大々的な導入イベントであったため、外国部のソナム(ソニー・アメリカ)課をはじめ、2ヵ月間くらいは準備におおわらわだった。
しかし、アメリカで販売に携わる人々に、トリニトロン・カラーテレビをはじめとするソニー製品はもちろん、ソニーという企業を理解し身近に感じてもらう意味でも大成功であった。また、このコンベンションを通じて、日本とソニー・アメリカが得た経験やノウハウは、後にソニーの販売促進イベントの原型となった。
さて、カラーテレビを売るとなると、売り方も少し変えなければいけない。
「もっと、消費者へのパイプを太く短くしていこう、自前のセールスマンで直接説明して売っていこう」。具体的には、ソニー・アメリカの各支店と卸業者の間に介在した代理店との契約を打ち切り、新たに外部から採用したソニー自前のアメリカ人セールスマンを、各地に送り込んだ。トリニトロンが新しくなった販売網に乗って売り出されていくと、ソニーのブランドイメージは、次第にアメリカで揺るぎないものとなっていった。営業経験豊かで、野球好きのスタイナーは、嬉しそうにこう言った。「これでソニーもアメリカでメジャーリーグに入るな」。実にアメリカ人らしい感想だ。
1960年代前半は、ソニーの「メイフラワー時代」(メイフラワー号:1620年、英国の港から乗った清教徒102人が苦難の航海の末、米大陸に渡った船)だった。 盛田がソニー・アメリカという拠点をつくり、ニューヨークに駐在して自ら陣頭指揮を執り、ひたすらソニーの名前の付いた製品を、一つでもアメリカ市場で売ろうと開拓していた。野球にたとえると、まだ、マイナーリーガー程度の力で頑張っていた。 それが、トランジスタテレビ、そしてトリニトロンという優れた製品の登場、販売網やサービス網の整備、サンディエゴやドーサン工場設立による製造販売企業への脱皮、アメリカ人幹部育成などにより、ソニーは着実に業績と知名度を上げ、アメリカ電子工業界でメジャーリーガーとして通用する力を付けたと彼は言いたかったのだ。 1970年代は、「現地化」の時代であった。その後、盛田の「グローバル・ローカライゼーション」の方針の下で、ソニーはさらに大きく飛躍していく。 80年代、90年代に続いた急速なソニーの海外展開を受け止める土台づくりが、10年間じっくりと時間をかけてヨーロッパ、アメリカをはじめとする世界各地で進んでいたのだった。
こうして見てくると、1960〜70年代は、ソニー製品を携えた海外進出・展開一色だったように思えてくる。しかし、盛田が当時、「今、やらなければいけない」と考えたのは、それだけではなかった。
アメリカのサンディエゴ工場の建設が進んでいた1972年5月のある日、ソニーの経営方針について新しいアイデアを出し合うため、神奈川県・箱根小涌園に、当時社長であった盛田をはじめ、数名の役員が集まっていた。
その席上で盛田が口火を切った。「どうだろう、何かアメリカから輸入しようじゃないか」。
突然の提案に、同意する者、口をつぐむ者、販売側の苦労を考え猛烈に反対する者など、そこにいたメンバーの反応はさまざまだった。猛反対を唱えた一人である外国部長に対し、盛田は殺し文句を発した。「そうは言うけど、結局はソニー・アメリカのためだよ」
当時、「スミソニアン合意」で1ドル=308円体制が確立したものの、依然としてアメリカの貿易収支赤字は解消しないばかりか、ドル不安は止まず、国際通貨体制が不安定な状況を続けていた。保護貿易主義が台頭していたアメリカでは、「エコノミック・アニマル日本は脅威」と捉られ、日本企業へのダンピング批判や日本市場への閉鎖性への不満となって現れていた。
当時の欧米の日本を見る目は厳しかった。盛田は、着々と独自の販売体制をアメリカに構築しながら、こうした感情的な議論が、日米間のより広範な関係に影響を与え、取り返しのつかないダメージを与えるのではないかと心配していた。
将来、ますます日本の輸出が強くなり、アメリカその他から「日本はもっと輸入しろ」と圧力がかかるに違いないと確信していた盛田は、「輸出を率先してきたソニーだからこそ、輸入も率先して行うべきだ。先んじて、逆に輸出市場としての日本に海外企業の目を向けさせるよう、われわれから積極的に働きかけようじゃないか」と主張した。
ドル切り下げ、円の変動相場制移行などをアメリカ滞在中に体験し、身をもって対日批判感情を実感してきた盛田は、「日本全体が、国際経済の中で置かれている立場をもっと認識する必要がある」と強く感じていたのだ。折しも、日本政府も、関税引き下げ、輸入拡大政策を準備していた頃である。
この小涌園の会合の2週間後、盛田は再びニューヨークへ飛び、ソニー・アメリカの広報と宣伝担当者と会議を開いていた。輸入活動の準備のためだった。
1972年5月31日、アメリカの主要4紙にこんな見出しの一面広告が載った。「SONY WANTS TO SELL U.S.PRODUCTS IN JAPAN(ソニーは日本でアメリカの商品を売りたい)」「日本はアメリカにとって非常に有望な市場である」と前置きしたこの広告は、「日本市場へ売りたい商品を持つ企業の輸出活動を、ソニーの販売力、知識を持って積極的にお手伝いします」という内容のものだった。
ソニーといえば、新しいトランジスタラジオや、カラーテレビを次々に生み出し、輸出してきた企業。「彼らが畑違いの輸入活動を?」という驚きと同時に、好意を持ってアメリカ国民に受け止められた。アメリカ全体に、「遠い日本にもソニーというビジネスフレンドがいます」とアピールしたのである。
1500件以上の引き合いが殺到したソニー・アメリカの窓口担当者は、嬉しい悲鳴を上げ、本社側の窓口だった外国部からも、急きょ応援部隊が派遣されたほどだった。盛田は予想どおりの反応に満足の笑いをうかべた。
「きちんとした輸入元として輸入専門会社をつくろう」ということで、7月にソニートレーディング(児玉武敏社長、現ソニートレーディングインターナショナル)が設立された。 同様の広告作戦は時をおかずヨーロッパでも行われた。加えて、海外にいるマネジャーたちにも、「日本で売れそうな品物をどんどん見つけて紹介してほしい」と呼びかけ、少しでも輸入の増大を、と盛田は心をくだいた。
「ソニーの名に恥じない優秀な製品、何よりも日本国民の消費生活を豊かにしてくれる製品を」という観点からふるいにかけ、契約に至った記念すべき最初の会社は、アメリカのワールプール社だ。大きな冷蔵庫をはじめとする家庭用電気製品が、翌年1月から輸入販売されることとなった。
その後、ソニートレーディングは、ウィスキー、掃除機からヘリコプターやジェット機に至るまで、実にさまざまな国の多岐にわたる製品を日本に紹介していった。製品の値段より高いアフターケア費用、国産製品との競合という頭痛の種はあったが……。
拡大し続ける日本の貿易黒字に対し、1978年に日米貿易摩擦という言葉が叫ばれるようになり、翌年「日本はうさぎ小屋に住む仕事中毒の国」とのからかいの言葉がECからも生まれた。こうなると、他社も腰を上げ、自社グループに輸入会社を設立するにあたって、「輸入のノウハウ教えてください」とソニーを訪れた。
また、輸入貢献企業としてジェトロ(日本貿易振興会)から表彰され、ソニーの先駆的な行動に対しての評価は高まった。
1985年。「現在の世界経済における保護主義の台頭は忌むべき」との状況認識の上に立ち、G5(先進国5ヵ国蔵相会議)において円安、ドル高の是正への各国の政策協調が合意されると(プラザ合意)、盛田がひと言つぶやいた。「いろいろあったけれど、ソニートレーディングを設立してよかった……」
その後、ソニーが、積極的に海外展開を進める一方、ソニートレーディングは、「貿易は双方通行であるべきである」という創立時の基本理念を守り続ける。そして、「国内外を問わず、埋もれている優れた商品を発掘していこう」と、輸入に加えて輸出や3国間貿易も始めるなど、ソニーグループのユニークな「商社」として成長している。
1970年代に、ソニーは、販売・サービスに続き、生産、マネジメントの現地化をいち早く始め、しっかりとした土台を欧米中心につくり上げてきた。
80年代。輸出依存度の高い製造企業にとっては、頭の痛い問題である「円高」が、1ドル=200円台、100円台と進んでいった。その頃、ソニーは売り上げのうち7割を海外市場が占めるようになっていたが、海外生産比率は20%程度に過ぎなかった。
高い円を使って日本で生産するのは割に合わない。円高は、ますますソニーの海外生産シフトを強める結果となり、欧米に加え、新しい地域——東南アジアへも目を向けさせた。実際、1985年9月のプラザ合意の後、1990年までに円高・ドル安の影響を受けにくく、かつ市場としても将来性のある東南アジア地域に、次々に9つもの工場が設立された。
確かにソニーの海外生産シフトに円高は追い風になったものの、盛田や大賀は世界的な視野の中で東南アジアの役割を考えていた。
「単に安価な労働力を求めての進出は歓迎されない。ハイテク製品の世界中への供給拠点として活用すべきである」と、1987年シンガポールに SPEC(Sony Precision Engineering Center)を建設して、CDプレーヤーの光学ピックアップの生産を開始する時もそのポリシーをはっきりと打ち出した。
こうして、「市場のある所で生産をする」のポリシーの下で70年代に始まったソニーの海外生産体制は、80年代「円高」という新しい波の中で、東南アジアを加え、よりグローバルに効率的な生産を行う日・米・欧・東南アジアの「4極体制」で再出発することになり、1990年に向けて、「海外現地生産比率 35%」という目標が立てられた。
さらに、販売、生産に続き、R&D(研究開発)、エンジニアリングも、それぞれの地域で育てていきたいと盛田たちは考えていた。「それぞれの地域に、オペレーションの中心となる組織が必要だ」——80年代後半、OHQ(オペレーショナル・ヘッド・クォーター=経営の運営機能を持った本部組織)を、日本に加えてそれぞれの地域に育てようということになった。
まずヨーロッパ。1992年のEC統合もにらみ、ヨーロッパという一つのまとまりの中で、オペレーションを自己完結的に行わせるために、1986年11 月、ヨーロッパの統括会社「ソニー・ヨーロッパ」がドイツに設立され、ソニー・ドイツ社長のジェイコブ・J・シュムックリを社長に任命した。
次はアメリカ。1987年7月、盛田正明(もりた まさあき、当時副社長)がソニー・アメリカ会長兼CEOとして、自らアメリカに渡って常駐を決め、「本当に国際企業となるためには、もっとマニュファクチャリングとエンジニアリングのカルチャーをアメリカに育てなくては」とグローバルな見地によるソニー・アメリカの再構築に乗り出した。
残るアジアには、1987年9月、シンガポールのSONIS(Sony International Singapore=1982年設立)に、その役割を課すことが明らかにされた。
こうしてそろった3拠点のOHQには、思い切った権限の委譲の下、生産だけでなく、販売、物流、技術、財務などについて、それぞれの地域で、最適なオペレーションを、より自己完結的に決定できるようになってほしいという願いが込められた。
一方、ソニー本社は、地域のOHQであるとともに、グローバルな視点に立ったWHQ(ワールド・ヘッド・クォーター)でもある。イノベーティブな新製品のテストマーケットであり、ソニー全体の研究開発、生産技術の開発拠点としての機能は持っていなければならない。これらの4極の地域同士が相互に補完・交流しあって、世界的な視点で最適な分業が行われれば、という将来の絵図もその先に描かれたのだ。
1988年5月に本社で開かれた部長会同で、続いて7月に開かれたソニートップと海外販売会社トップの参集するITM(インターナショナル・トップ・ミーティング)の席で、当時会長の盛田昭夫は、こう呼びかけた。「日本、アメリカ、ヨーロッパ、東南アジアのそれぞれの地域において、全く新しい目標を持って、ソニーをローカライズ(局地化、現地化)しなければならない。 しかも、そのローカライズは、ソニーとしてグローバル(世界的)な目的の下にされなくてはならない。そこで、『グローバル・ローカライゼーション』を、ソニーの新しい精神を表す言葉として、掲げたい。 おのおののマーケットとニーズに適した、しかも技術とコンセプトは共通した考えであること。これがソニーの新しい生き方である」