SONY

第1話 外国人役員の誕生

 1970年代に始まった海外拠点のマネジメントの現地化もさらに進んだ。現地採用の社長が次々に誕生し、それぞれの地域に根づいたオペレーションを進めるために活躍した。たとえば生産工場など建設する時などにも、政府との交渉など現地の人のほうが何かと事が運びやすい。
 また、地域社会への浸透も促しやすい。しかし、盛田や大賀は、地域ごとの自律的なオペレーションを望みながら、「ソニーはあくまで一つ」ということを大切にした。

 ソニートップと海外販売会社トップの参集するITM(インターナショナル・トップ・ミーティング)などを行ったり、また、本社の経営陣が海外の隅々まで足を運ぶことで、国・地域を超えたソニーのアイデンティティー、基本方針というものを守り、徹底し続けたのだ。
 そもそも、盛田をはじめとするソニーの経営者たちは、国内外を問わず、最前線まで行って顔を見せてはフィロソフィーを語り求心力を高めるとともに、現地のソニースタッフおよび日本人社員の家族を含めて、個人的な付き合いの時間も割くことに労を惜しまなかった。

 やがて、1989年6月、70年代から欧米のソニーで活躍していた2人の外国人社員が、ソニー本社の役員に名を連ねることになった。海外子会社にいる外国人社員を本社役員として迎え入れるのは、日本企業ではほとんど例のないことだった。
 ソニー・アメリカ副会長のマイケル・P・シュルホフは、音楽・映画会社の買収に活躍、ジェイコブ・J・シュムックリは、ソニー・ヨーロッパの社長として活躍していた。

 盛田や大賀は、この人事で、「基幹人材については、国籍に関係なく、能力主義で国、地域を超えて世界規模で登用を行うことで、場とチャンスを提供していこう」という姿勢を示し、これがほかの海外販売会社・工場の現地スタッフの励みとなってほしいと考えた。
 人材の国際的登用は、世界に広がるソニーという大きな枠組みの中で次のステップへ移ったのである。

第2話 R&Dの国際化

米カリフォルニア州サンノゼのリサーチ・ラボラト
リーズ

 1989年5月、アメリカのカリフォルニア州サンノゼで、高精細度テレビのアメリカの開発拠点であるAVTC(Advanced Video Technology Center)が開設された。
 盛田はオープニングセレモニーの挨拶の中で、「おのおのの国での地域事情に合わせた、あるいは地域のお客さまの要望に沿った商品の開発は、おのおのの地域において行う必要がある。各地域の得意とする分野、たとえばイギリスのデジタル技術や、アメリカにおけるグラフィックスや特殊効果技術の研究開発結果を、ほかの地域に還元すれば、R&D(研究・開発)活動における全世界的な相乗効果を得ることができる」と述べた。

 盛田の言葉には、グローバル・ローカライゼーションの方針の下、販売・製造に続き、技術の移転を含めた研究開発も、本格的に「市場の近くで」展開していこうという、新しい時代の動きを見据えたソニーのひとつの姿勢が現れていた。

 それ以前にも、ソニーは、各国の放送方式に関連する放送業務用・情報機器分野では、早くから海外での技術開発を進めてきた。
 第1号は、1978年設立のSBC(Sony Broadcast Ltd.=現BPE(Broadcast and Professional Europe))。放送機器の販売を行うとともに、当初からシステム設計を中心とした研究開発部門を備えていた。
 SBCのR&D部隊は日本の放送機器事業本部と強力なシナジー効果を生み出し、コンポーネント・デジタルVTR(D1)の商品化などに大きな貢献をした。

 一方、民生用機器に関しては、1986年設立の西ドイツのSTC(Stuttgart Technology Center)、1987年設立のシンガポールのSPEC(Sony Precision Engineering Center)で少し行われている程度だった。「これからはどんどん民生用の海外拠点もつくっていこう」と経営陣も積極的に考え始めた。

 かくして、90年代、R&Dのグローバル・ローカライゼーションは進み、海外の研究開発拠点は20数ヵ所に拡がっていく。しかし、販売の海外比率は70%以上、生産の海外比率は30%以上——R&Dの現地化も、まだまだ促進しなくてはならない。
 市場の近くでニーズに合った開発や、各地域の得意分野の成果を他の地域に還元して、ソニー全体のR&Dの強化と効率化を図るというのが R&Dの国際化の本来の理念。これに加え、90年代の「円高」のさらなる進行は、日本で発生するコストを削減し為替変動の影響を最小限に抑えるためにも、R&Dの海外移管を急務とした。
 また、AV(音響・映像)に加え、コンピューターや通信分野において新規ビジネスの芽が多く出始める時代になると、欧米、特にコンピューター、通信のインフラ、ソフトウエア技術が進んだアメリカにおける技術開発活動は、人材獲得や先進の米企業との技術提携などを含めて、ソニーにとってますます大切になってきた。

 こうした新しい時代の要請の中、「海外に点在する研究開発拠点を有機的につないで、より効率を上げていく体制づくりが必要だ。そのためには、まず欧米に、それぞれ統括するR&D拠点と統括者を置こう」と、1994年4月、アメリカ・カリフォルニア州サンノゼに米国リサーチ・ラボラトリーズを設立し、長年コンピューターや映像などの技術開発に加え、法務・知的財産権部門を担当してきた取締役の堀 建二(ほり けんじ)が、CTO(Chief Technology Officer)=拠点におけるR&D活動の最高責任者)に就任した。また同時に、ヨーロッパでも、ハンス=ゲオルグ・ユンギンガーが、欧州 R&D(本拠地ドイツ・シュツットガルト)のCTOに就任し、欧州R&D体制の再構築に乗り出した。

第3話 「4極」プラス「エマージングマーケット」

1993年中国・上海にカメラ一体型VVTRの生産拠点を
合弁で設立(手前左側がサインをする当時副社長の橋
本)

 1995年度のソニーグループの海外生産比率は47%に達し、さらに増える方向にある。カラーテレビ、ヘッドホンステレオ、CDプレーヤーなどエレクトロニクス機器を中心に生産の海外展開が進み、日・米・欧・東南アジアの4極では、域内での資材・部品調達も含め、かなりの分野で自己完結でマネジメントできる体制が整ってきた。

 国際規模の物流、サービス体制も、グローバル・ローカライゼーションと歩調を合わせて整えられていた。
 海外に拠点を増やすソニー・ロジスティックスと連携しながら、物流本部(1985年発足、現物流部門)は、1990年のソビエト連邦崩壊後、ココムなどの輸出規制が緩和されると、「より速く、安く、安全な」国際物流を目指して、革新的な戦略を進めるようになった。

 輸出用の倉庫に入れずに工場から直接港のコンテナに運び入れる「ダイレクトバンニング」を、1993年頃から国内のさまざまな生産拠点で導入し、経費削減とスピードアップに大きな成果を挙げた。
 また、販売機能の一環とされがちだった物流機能を、生産から販売に至るトータルな流れの中で捉えて効率化を図っていく「製販物流革新」が、1994年頃から日本、そして東南アジアでも行われていった。

 また、1990年代に入ると、従来、各国のサービス部門が個別に管理していた補修用部品の供給体制を見直し、1992年に日本、1995年に東南アジア(シンガポール)、ヨーロッパ(ベルギー)、1996年にアメリカ(カンザスシティー)にと、相次いでワールド・リペア・パーツ・センター(WRPC)を開設し、各ゾーンで相互に補修用の部品や情報を供給しあえる日・米・欧・東南アジアWRPCの世界4極体制を構築していった。各国の販売会社のサービス部門などとともに、世界規模のアフターサービス体制の基盤がつくられていった。

 今、4極に加え、新しい市場も広がっている。日・米・欧の先進AV市場が成熟化する中、新たに将来性のある経済市場として注目を集めたのは、80年代は ASEAN(東南アジア諸国連合)だった。
 90年代に入って世界の視線を浴びるようになったのは、経済の自由化が政治の安定をもたらし、秘めた潜在力を開花させてきた中国、インド、ベトナム、南米などの国々だ。

 欧米では他社より一歩先んじたものの、今度は、各社一斉のスタートとなる。まずは、SONYブランドの浸透からの出発だ。
 販売・サービス網をつくり、生産・R&Dも含めて、地域に密着し自己完結化したビジネスを展開させていく——60年代から欧米で培ってきたグローバル・ローカライゼーションのソニーのノウハウが、新たな舞台で試されている。

第4話 「良き企業市民」をめざして

SSPAで来日したアメリカの高校生たち

 1987年に渡米した盛田正明(もりた まさあき)は、「生産・R&Dなどソニー・アメリカのモノづくりの力を高め、アメリカの輸出に貢献する企業になろう」とオペレーションの再構築を手がけると同時に、「広くカンパニー、コミュニティー、カントリーのために仕事をしよう」と、スタッフに呼びかけた。ソニーは、会社創立時より、一貫して教育・文化の助成・支援を大きな指針としてきた。

 ソニー・アメリカは、すでに、1972年のサンディエゴ工場設立と同時に、「良き企業市民」として現地と融和することをめざし、 (財)ソニー・ファウンデーションを設立し、ソニー・アメリカの教育・医療・地域活動・マイノリティー(少数民族・少数派)への継続的な助成活動を始めていた。日本企業がアメリカに設立した最初の財団だった。

 この流れの中で、1987年には、アメリカ人口の12%を占めるアフリカン・アメリカンのアーチストを支援する「ソニー・イノベーターズ・アワード」が創設された。音楽および映像分野で将来性豊かな芸術的才能を持つ、アフリカン・アメリカンの新進芸術家を対象に毎年授賞式を行うものだ。

 1988年の第1回の授賞式パーティーでは、審査員として参加した有名なアフリカン・アメリカンのミュージシャン、クインシー・ジョーンズ氏は、「ソニーのような大企業がアフリカン・アメリカンの音楽家の存在を全米に知らせるチャンスを与えてくれ、大変嬉しい」と喜びの挨拶を行った。

 大学教育への援助も数々行った。
 1989年ノーベル物理学賞受賞者であるジョン・バーディーン教授の功績を称え、アメリカのイリノイ大学に「バーディーン教授職」が新設された時は、資金的援助を申し出た。
 ソニーは、ソニーの発展に多大な恩恵をもたらしたトランジスタの発明者の一人である教授に、敬意を表するとともに、イリノイ大学の物理学研究の更なる発展に協力したいと考えたのである。

 1990年のソニー・アメリカ30周年には、国境を超えて活躍する青年たちの育成に力を注ぎ始めた。アメリカの明日を担う高校生を毎年50人日本へ招待し、工場見学、ホームステイを通じて日本のハイテク産業、文化に対する理解を深めてもらうSSPA(Sony Student Program Abroad)を始めたのだ。
 1996年現在まで毎年続いており、このプログラムで来日した高校生は既に350名に達していいる

 また、歴史・伝統の深い文化・芸術のあふれるヨーロッパ地域では、レオナルド・ダ・ビンチ像(ミラノ)の修復工事への支援、ルーブル美術館の施設増設費の援助など、特に文化・芸術の普及・保全のための活動に積極的に参加している。

 90年代に入ると、アジアでの活動も盛んになる。中国では「北京ソニー奨学金」を開始、シンガポールでは、SPECの積極的な共同募金への参加、ボランティア活動が認められ、日系企業としては初めて政府から「Outstanding Corporate Citizenship Award」を授かるなど、それぞれの国において地道な活動を展開している。

 日本でも、「明日を担う子供たちに豊かな心と科学の眼を」という井深の思いから始まった「ソニー理科教育資金(現ソニー教育資金)」の贈呈は、1972 年に設立された(財)ソニー教育振興財団にその事業を引き継がれた。島津久永(しまず ひさなが)たち歴代専務理事の運営の下、1995年に第40回を数え、これまでの資金、機器の贈呈校は約5千校に上った。また、1984年に設立された(財)ソニー音楽芸術振興会も、わが国の音楽芸術の普及や新進音楽家の育成のため、さまざまな支援活動を行い続けている。

 こうして、80年代そして90年代、欧・米・東南アジアを極に進むグローバル・ローカライゼーションの中で、ソニー、そして各地のソニーの販売・製造会社たちは、それぞれの地域の持つ伝統、文化、問題を深く理解しながら、真に現地企業として「良き企業市民」となるべく活動を行う一方、国境を超えた国際交流・協力プログラムの促進などを進めていったのである。