日本のGNPが西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位となった1968年、アメリカ電子機械工業会(EIA)は「日本製テレビはダンピングの容疑あり」と、ソニーを含む日本メーカー11社を財務省に提訴した。日米間に経済摩擦が発生しつつあった。「日本のメーカーがテレビを自国におけるよりも安い価格でアメリカに売っているため、アメリカ国内のメーカーは多大な被害を受けている」というのである。
そもそも、ソニーのカラーテレビは「高すぎる」と言われるほどだったから、ソニーをダンピングに巻き込んだら、彼らの正当性が疑われそうなものだが、国別に判定する方針をとったのでソニーも対象となり取り調べを受けた。1971年には、財務省が「日本製テレビ、ダンピングの事実あり」との裁断を一括して下した。が、まもなく日本メーカーの中でソニーのみが「ダンピング容疑なし」のお墨付きをもらった(1974年8月暫定発表、1975年2月正式発表)。
盛田、岩間が、EIAの提訴が起こるや否や、「これは将来大変な問題になる」といち早く判断して、直ちに膨大な量の関係資料を集めて、アメリカ政府にダンピング容疑は濡れ衣であるということを訴えた。こうした速い決断や行動をとれるのは、盛田や岩間たちソニーの幹部が「日本にいないことが多い」と言われるとおり、自らが海外へ足を運んでアメリカの社会、法的問題の実情の理解を深めていたからであり、市場を調べ、常にフェアビジネスを貫いてきたからである。
「無罪」の裁定が出た後も、法技術的な理由から、この「ダンピング」問題が完全に解決するまでには、さらに8年の月日を要した。最初の提訴から問題終結を迎えた1983年までの15年間というもの、莫大な労力や費用を費やしたが、国際企業としての正義と信念を貫いた。
さて、1972年に完成した米サンディエゴのカラーテレビ工場が、操業を開始し順調に生産を進める中、盛田の頭を悩ます問題があった。工場のあるカリフォルニア州の増税攻勢である。カリフォルニア州は、日本の対岸という地の利の良さに加え、ロサンゼルスやシリコンバレーなどの魅力的な都市を有する日本の対米進出の拠点であり、70年代後半、日本の対米直接投資の20%ほどが、対カリフォルニア州であった。しかし、税額はもちろんのこと、課税の論理が明らかに不公正だ、そう思えたのである。
カリフォルニア州をはじめとする数州は、「ユニタリータックス(合算課税)」という税制を導入していた。そもそもは、「鉄道のレール」が発端となった、アメリカでは歴史の古い税制だ。ユニタリータックスは、ある州の現地法人に課税する場合、その現地法人の所得だけでなく、州外の親会社を含め、全関係会社の所得を合算して課税する。
全世界レベルでの会計報告自体、莫大な費用がかかるところへもってきて、さらに問題なのは、現地法人が赤字でも、親会社が黒字であれば、その黒字分と合算した上で税金をとられてしまう。親会社を巻き込んだ国際的な越境課税として、ユニタリータックスの「悪名」は、徐々に外国からの進出企業の間で高まっていった。
1977年4月に、ブラウン・カリフォルニア州知事が、日本企業誘致のため来日した。1971年のドルの変動相場制への移行の後、アメリカ政府としては、対日輸出拡大を図りながら、さらに日本からの直接投資を促す方針を打ち出していた。各州の知事が日本の企業誘致のために盛んに訪日などを行っていた。ところが、ブラウン知事が、自動車会社などを訪れると、「カリフォルニア州にはユニタリータックスがあるから投資しませんよ」と、冷淡な答えばかりである。ブラウン知事は、自州のユニタリータックスがどういうもので、どうして悪いのかよく理解していなかったようだ。「1972年からカリフォルニア州に出資して、事情に詳しいソニーの盛田さんに聞いてくれ」とある会社を訪れた時に言われ、ブラウン知事は盛田に面会に訪れた。盛田は、この時とばかりに「ユニタリータックスはだめです。貴方の州の企業誘致政策に矛盾し、われわれの投資拡大意欲はどんどん損なわれる。廃止すべきです」と説明した。ブラウン知事は盛田の警告にびっくりして帰国していった。
だが、ユニタリータックスの導入の動きは各州に広がりつつあり、もはやカリフォルニア州という特定の州の問題でも、一部企業の問題でもなくなっていた。盛田は当初から「このユニタリータックス問題は、自分たちが先頭に立ち、団結して積極的に動くべき問題だ」と考えていた。「国をまたいだ問題とはいえ、政府間の交渉に頼り、結論を待っているだけでは駄目だ」と。
1977年11月、盛田は1枚の紙に「クリス・和田はソニーのロビイストである」と書き、ソニー・アメリカで働いていた和田貞實(わだ さだみ。通称クリス・和田)の手に渡した。
ロビイストとは、議会の力の強いアメリカ独特の職業である。特定の企業、民間団体、外国政府の利益代表として、議員や議員スタッフに働きかけ、情報提供、世論の動向の報告などを行う。自分が利益を代表する組織に不利な立法措置に対しては、阻止するため、議員のみならず、広く一般市民に対してアピールを行う重要な役割を持つ。
盛田はアメリカ社会を理解していた。「アメリカを最終的に動かしているのは選挙民とそれに基づく政治だ。各地域の『草の根』レベルに日本人が入り込み、時間をかけて活動し、こちらの真意を理解してもらえればアメリカ社会の対日理解は深まる」という認識に立ち、ワシントン連邦政府のみならず、カリフォルニア州など全米の州に、ユニタリータックス撤廃のための行動を起こしていこうと決意していたのだ。だから、現地において外部のロビイストを雇って任せるだけでなく、和田に「自らもロビイストとして動け」と命じたのである。
そして盛田は、課税の被害にあった会社の先頭に立ち、経団連を指揮し、自らユニタリータックス廃止に本格的に乗り出したのだった。
1981年秋、盛田は、京セラの稲盛会長とともに「問題対策協議会」を旗揚げした。アメリカ政府に対してユニタリータックスの撤廃のためのアピールを行う旨を明らかにするとともに、日本電子機械工業会や経団連などの経済団体の協力を仰ぎ、アメリカ連邦政府、連邦議会、州政府、州議会へ働きかけ始めた。二重課税を否とする租税条約・日米友好通商条約などに照らし、アメリカ財務省や大統領に直接書簡を送ったり、訪米時に公聴会で証言を行うなど、「ユニタリータックスは重大な非関税障壁で、かつ二重課税の恐れあり」と訴えていく。
また、盛田は、「国家間の条約内容に関係した国際問題です。政府間レベルでもこの問題を取り上げてほしい」と、日本政府にも呼びかけた。慎重な姿勢をとってきた日本政府もやがて腰を上げ、政府間レベルでアメリカ政府に対し何度も懸念を示し、是正を求めるようになった。また、イギリスなどヨーロッパ諸国も廃止を要求し始め、ユニタリータックス反対の土俵は広がり、先進国首脳会談のテーマにもなった。
レーガン大統領の所には、イギリスのサッチャー首相や日本の中曽根首相から、「租税協定に反します。困ります」と書簡が届く。もちろん、彼は自分の出身州であるカリフォルニア州に企業を誘致したい。しかし、州税の独立性が保たれているお国柄、大統領といえども州に撤廃を命令することは難しく、せいぜい勧告という対応しかできない。そもそもユニタリータックスは、レーガン大統領がカリフォルニア州知事時代に自分で導入したものだったから、なお具合が悪い。頭の痛い問題であったろう。
80年代に入ると、アメリカ連邦政府の緊縮策による州の財政圧迫とあいまって、ユニタリータックスの導入・採用の動きはカリフォルニア州からオレゴン、アラスカ、イリノイ各州などに広がり、ナイジェリアなどの途上国に飛び火する勢いさえ見せた。1983年当時、アメリカでは14州でユニタリータックスが採用されていた。
盛田は日本側のリーダーの 一人として「不公正税制」を撤廃すべく、実に粘り強く取り組み、文字どおり東奔西走した。盛田がめざしたのは、一企業ソニーの海外進出の便宜のためだけではない。盛田は常々、日本とアメリカの相互の経済交流・企業発展の妨げになる双方の意識・制度を取り払わなくてはならない、という確固たる信念をさまざまな場面で見せてきた。「ユニタリータックスもそうであり、互いに発展をもたらす制度ではないのだ」と。
盛田を先頭に、日米の法務・渉外スタッフたちの支えの上に繰り広げられたユニタリータックスの廃止運動——経団連ミッションの行脚活動、ロビイ活動、草の根(グラスルーツ)運動——の成果は着実に出てきた。特に、課税権限を持つ州当局との直接交渉の成果は大きかった。日本から経営者が自ら出向いての説得に、撤廃の意思を表明する州が次々と出始めたのである。また、実際にユニタリータックス導入州への投資停止、工場売却、移転を行う企業が次々と現れると、州関係者には危機感も高まった。
1984年8月、ついにオレゴン州が、各州のトップを切ってユニタリータックス廃止へ踏み切った。「本丸を攻め落とすにはまず外堀から」という作戦で、カリフォルニア州周囲のユニタリータックスを導入する州を積極的に攻めた作戦が功を奏したのだ。オレゴンに続いてフロリダが、1985年にはインディアナ、ユタ、コロラドの各州が次々と撤廃に踏み切った。
こうして、ソニー、京セラをはじめとして、カリフォルニア州で5万人のアメリカ人を雇用する日本企業の関係者が団結して、自ら草の根まで働きかけた効果は着実に現れた。議会とは太いパイプが築かれ、改正法案を支持する有力議員が増えていった。
何度も「行ったり来たり」の繰り返しだったユニタリータックス問題に、最終的に事実上の終止符が打たれたのは1986年のこと。折しも、世界経済の安定成長のための多角的監視と政策強調がテーマとなったサミットが東京で開かれた年である。8月、最も強硬派であったカリフォルニア州議会が、前年、前々年と成立寸前までこぎ着けながら流れてしまっていたユニタリータックス改正法案を可決し、1988年1月から改正新法発効の運びとなったのだ。
この改正新法は、外国企業(アメリカ国外の事業活動が全体の80%を超える)の課税対象を、「アメリカ国内の事業活動に限定するという水際(ウォーター・エッジ)方式か、現行の世界規模のユニタリータックス方式のどちらかを選択する」というものだった。水際方式を選べばよいので、実質上のユニタリータックス廃止に等しい。水際方式には、選択料(エレクション・フィー)の支払いが必要のため完全撤廃とはいえなかったのだが、ともかくも海外からの進出企業の負担は一気に軽減されることとなった。
1986年9月、正式にカリフォルニア州知事が改正法案に署名を終えると、ソニー・アメリカは向こう3年間、新たにサンディエゴ工場へ3千万ドルの投資を行う、と発表した。
大きな目標を達成するための、辛抱強い草の根運動が勝利を導いたといえよう。カリフォルニア州のユニタリータックス廃止の後、各州でユニタリータックス廃止が進み、1991年のアラスカ州の廃止を最後にすべての州からユニタリータックスは姿を消した。
1960年に設立されたソニー・アメリカは、アメリカのビジネス社会の良き一員となるべく努力を続けてきた。しかし、その過程では、盛田が「何度も腹に据えかねる思いをした」と言うほど、アメリカの法律問題には悩まされ続けた。「法律的なことを抜きにはアメリカでビジネスはできない」と。最重要課題にはトップが自らをコミット(責任者と)して動く。
ユニタリータックスも自ら使命感を持って東奔西走した。そんなリーダーシップの発揮がソニーらしさである。盛田は、自ら法律問題に興味を持つと同時に、日本の本社に強力な法務チームをつくろうと努力した。
何か法的な問題が起きるたびに、盛田はロッシーニ氏たち弁護士とともに、法務スタッフを直接指揮して対応していく。スーパースコープ社との契約関係、 TI(TEXAS INSTRUMENTS)社やテクトロニクス社との合弁契約、IBM社などとの技術供与契約など数々の契約作業。そして70年代のNUE・ゼニス訴訟(アメリカのNUE社、ゼニス社が、日本のテレビメーカー各社を相手取り、独禁法違反を理由に提訴)、ゴービデオ訴訟(アメリカの家電メーカーのゴービデオ社が1987年、日韓のVTRメーカーとアメリカの映画会社を相手取り、独禁法違反を理由に提訴)など、多額の賠償金の請求の伴った訴訟——ソニーの法務チームは、これら契約、訴訟への取り組みを積み重ねながら、盛田の願いどおり強力で有能なスタッフへ育っていった。そのチームワーク、実力が遺憾なく発揮されたのが、1970年代にアメリカで起こった「ベータマックス訴訟」である。
1976年9月初頭のこと。「これで、『コロンボ』を見ているから『コジャック』を見逃す、ということはなくなります。その逆もありません。ベータマックス——ソニーの製品です」。広告代理店から送られてきたソニーの家庭用VTR「ベータマックス」広告のラフスケッチを手にして困惑していたのは、ユニバーサル映画とその親会社MCAであった。『刑事コジャック』と『刑事コロンボ』は、ユニバーサル映画配給の人気テレビ番組の双璋だった。その困惑はやがて、ロサンゼルス地裁への提訴に始まる8年がかりの大訴訟へと変わっていったのである。「著作権侵害」、初めてソニーが突きつけられた「容疑」だった。
原告のユニバーサルスタジオとウォルト・ディズニー・プロダクションが、ソニー本社およびソニー・アメリカを訴えた主張は——(1)映画は製作者側の著作物である (2)著作権を持つということは、複製の独占権を持つということである (3)著作者でない個人消費者が勝手にテレビ映画を複製するのを可能にする家庭用VTRは、必然的に複製権の独占の侵害、つまり著作権の侵害となる (4)その侵害行為を行うVTRを実際に使用した個人はもちろん、それを製造・販売するソニーは侵害行為に寄与している——という内容のものだった。ソニーの他に広告代理店、小売店、実際にビデオ録画した個人が訴えられた。
この訴えがアメリカの法律上認められば、法改正でもない限り、アメリカ市場におけるベータマックスの販売を諦めなくてはいけなくなる。もちろん、敗れれば損害賠償金も支払わなくてはならない。前者は特に困る。家庭用VTRの将来が摘み取られてしまうかもしれない。裁判は莫大な費用と時間、そして人々のエネルギーがいる。しかし、盛田率いるソニーは受けて立った。ソニーだけでない、世界の電子産業全体の将来にとって重要な訴訟だ。ソニー側の理論の中心となり、やがて裁判上のキーワードになったのは、盛田の造語「タイムシフト(時間に拘束されずにテレビ番組を見られる)」という概念だ。
(1)家庭用VTRは、一般大衆が受信機を持ってさえいれば、本来見られる番組を単に時間帯を変えて見られるようにしているに過ぎない、つまり「放送の延長」であり「複製」ではない (2)さらに、公衆の電波はより多くの人に情報を伝達するために与えられた公衆の資産である。そこに情報を乗せた以上は、多くの人に情報を伝えるための道具であるVTRの存在も認めるべきである——これがソニー側の掲げた主張だ。
1979年10月、ロサンゼルス地裁でソニーの主張は認められ、全面勝訴した。ところが、ほっとしたのも束の間、ユニバーサル側の控訴により行われた 1981年の米国連邦高等裁判所の審議では、一転して敗訴となった。ソニーはもちろんこの判決を不服とし、翌年ワシントンの連邦最高裁判所に控訴することになる。
高裁で負けるまで、この家庭用VTRをめぐる訴訟は、これに関わった担当者を除いて、あまり社内外の人々の関心を集めていなかった。しかし、敗訴すると、一転して注目が集まった。アメリカ中の、いたるところの新聞がこの「ソニーの大々的な敗訴」を取り上げ、しかも、そのほとんどが「けしからん判決だ」というものだった。テレビの前でビデオを見ている人に、ミッキーマウスが手錠をかけに来るという1コマ漫画まで掲載された。また、ソニーのみならず、他社にも家庭用 VTRをめぐる訴訟は広がっていった。
盛田は「この問題は裁判にとどまらず、いずれかは議会にまで波及する」と読んだ。なぜなら、この当時のアメリカの著作権法には、家庭用VTRのような新しい技術に対応する明確な記述がなかった。アメリカの著作権法には、日本のように「私的複製の例外(個人の楽しみのための複製は著作権侵害にあたらない)」というのがなかったのである。
盛田のいうとおりだった。「このような判決を出させる『著作権法』こそ問題である」とばかりに、私的複製を合法化すべく、猛烈に立法活動を始めるアメリカ議員も出てきたのである。
「この家庭用VTRの問題は訴訟、裁判という特定当事者間で決着するのではなく、立法で決着すべき本質的な命題を含んでいる」と盛田は確信した。ソニーにとって、法の遵守は基本姿勢だ。しかし、裁判がよりどころとする既存の法がおかしい、あるいは足りない時には、訴えていく必要もあるという信念を彼は持っていた。盛田の指揮の下、当時ソニー本社の法務スタッフが、ソニー・アメリカのクリス・和田、そして弁護士のダンラビー氏たちと力を合わせ、裁判の準備をした。同時に、何人かの議員の協力を得て立法化に向けた準備も進めていく。高裁の敗訴後、こうしてベータマックス問題は、大裁判と大立法活動が同時に並行して進む珍しいケースとなっていったのである。
映画会社も黙っているはずがない。私的複製を認める法案を通すなら、ロイヤリティーをVTRやテープに課す内容にするべきだと譲らない。ソニーは最高裁への控訴準備と並行して、伝統的に議員や政治界と結び付きの強い映画産業に、どうやって議会で対抗していけるかを検討した。そして、到達した結論は—— 「われわれは、議員を選ぶ民衆、有権者に訴えていこう」
まず、「タイムシフト」に基づくソニーの主張の正当性を訴え、利害の一致するほかのメーカーや消費者、流通業者を組織し、HRCCというコアリション(利害が一致する企業・個人の集まり)を組織化した。有力なロビイストや弁護士を雇い、この団体を母体に、直接議員にロビイ活動を行う一方、市民の署名活動を組織したり、消費者団体、ユーザーやディーラーからも地元議員に手紙を出してもらうよう呼びかけたりした。いわゆる草の根運動、グラスルーツ運動だ。そして、この運動はアメリカでもまれに見る大がかりなものとなっていった。
一方、アメリカ映画産業側も、大物スターや多勢のロビイストを動員しながら、対抗してくる。著作権問題は連邦議会の問題でもありながら、それに販売業者、消費者、そして映画産業、音楽産業が複雑に絡み合う規模の大きなものとなっていった。
マス・メディアからも質問が殺到した。盛田を中心に公開討論、スピーチなども積極的に行い、電波に乗せてアメリカ国民へメッセージを送った。また、「What time is it now ?」の見出しで、タイムシフトの「健全な常識」を世に訴えるオピニオン広告を一流新聞の1面全部を使って掲載したりもした。大変なエネルギーと時間をかけて、盛田たちは全米を説いて回り、決して諦めなかった。
一方裁判も、法務チームが、最高裁へ何とか持ち込もうと必死の努力を続けていた。アメリカの最高裁は、上告すれば自動的に審議してくれるわけでない。申請された上告を受理するかどうかをまず決める審議が行われるという、2段構えの仕組みとなっていた。1982年3月に出した上告申請が受理されるまで、とにかく異例なほど時間がかかった。裁判官たちにとっても、厄介な裁判だったのだろう。
最高裁の審議は始まった。しかし、最高裁の本論に入ったあとも、待てど暮らせど判決が出ない。やっと出た判決は何と「リ・アーギュメント」。つまり、9 人の最高裁判事の前でもう一度議論せよというものだった。
そして再審議の後、ついに出た判決は、5対4というソニーにとってきわどい勝訴であった。判決理由は、「無料テレビ放送の電波から家庭内でビデオ録画を行うことは、著作権侵害には当たらない。メーカー側に一切法的責任なし」。判決文の中に、「タイムシフト」の言葉が使われていた。家庭用VTRは人々の生活に便益をもたらすものであるという盛田の強い信念に基づいたものだった。日米で必死に動いたスタッフの努力は実を結んだ。1984年1月17日、訴えが起こされてから実に8年が経とうとしていた。米国連邦最高裁判所において、初めて日本企業が勝訴した記念すべき日となった。法を変えることなく、タイムシフトに基づく主張は正当と認められたのだ。
違う時代に同じ訴訟が起こっていたら、同じ判決が出たかどうか分からない。当時は、家庭用VTRが、ほとんどがソニーの主張するタイムシフト的な使い方をされていたため、ソニーの訴えた主張が正当とみなされた。「ベータマックス訴訟」は、まさに「時代が生んだ」訴訟であり、判決であった。
裁判は終わったが、著作権問題はその後ずっと現在に至るまで、新しいメディアの開発と歩調を合わせ、議会を舞台に話し合われるテーマとなった。ソニーも、新しい商品を世に出す時には、フォーマット構築とともに、必ずお客さまが安心して使えるように、立法面での環境づくりもしっかりと行っていこうと努力を続けた。基本技術がアナログからデジタルへ移行し、デジタル・オーディオが登場した時には、ついにハードウエア産業とソフトウエア産業が歩み寄り、 DAT(Digital Audio Tape)の共通法案を一緒に推進するまでに至ったのである。