「50周年は一つの節目です。これからは、皆の力を結集し、チーム・スピリットをもっと発揮して、個人でなく、『会社自体の行動にカリスマ性がある』会社にしたいと思っています」。出井は社長就任にあたり、こう社員に向けて挨拶を行った。
これからのソニーの原動力は「チームスピリット」。何か、チーム皆の心を鼓舞する合言葉——キーワードが必要だ。ソニーらしさを活かして、かつ新しい時代に向けたもの....。
出井が社長に任命されて最初に考えついたのは、「リ・ジェネレーション」(第二創業)という言葉だ。「日本が戦後の荒廃の中から復興したように、ソニーも、社員一人ひとりも、創業の精神を継承しながら、たゆみない自己革新をして、次の世代に貢献していかなければいけない」。こんな思いを込めて、大きな経営指針、行動指針に決めた。
さらに、出井はソニーをどんな会社にしていきたいか、どんなモノづくりをしていったらよいかを考えた。アナログ技術からデジタル技術への急速な技術革新は、産業を、人々のライフスタイルをも大きく変えつつある。
「デジタル・ドリーム・キッズ」——出井は、この言葉をキーワードにしようと考えた。デジタル時代に育ち、デジタル技術に目をキラキラさせるデジタル・ドリーム・キッズが、将来のわたしたちのお客さまだ。彼らの夢をかなえる企業にならなければいけない。そのためには、わたしたち自身も、新しい技術環境に目を輝かすデジタル・ドリーム・キッズでなくてはいけない。
若々しさや夢を詰め込んだこの2つのキーワードは、ソニーの力を次の世代に伸ばすイメージとして、ぴったりに思えた。
そして、デジタル・ドリーム・キッズの先頭に立つ出井は、「コンピューターの技術、文化を一日も早くソニーの基幹部分に取り入れたい」と、コンピューターへの思いを就任早々から宣言したのである。
出井自身、80年代、事業部長として、ソニーのコンピュータービジネスを推進し、その難しさを嫌というほど味わった経験があった。ただ、これまではトップ、社員を含め、ソニーはAV(オーディオ・ビジュアル)のリーディングカンパニーであるという認識があった。そのため、コンピュータービジネスの重なる撤退、伸び悩みに、社内でもさほど危機感を持っていなかったのも事実である。
それは、コンピューターがまだAVの世界から遠く離れた分野だと思われていたからだ。
しかし、90年代、マイクロプロセッサー(超小型演算処理装置)やOS(コンピューターの基本ソフト)などが急速に進歩すると、その分野を押さえる企業が、エレクトロニクス業界にも大きな支配力を及ぼすようになってきた。加えて通信業界もソニーの手がけるビジネスにとって無視できないものとなっていた。
パーソナルコンピューター(パソコン)を中心とするIT(情報通信技術)ビジネスは、米マイクロソフト社や米インテル社のアーキテクチャー(コンピューターのシステム構想や、その設計思想)の下でアメリカを中心にすごい勢いで発展していた。限りなくソニーの得意とするAV領域に近づき、スピードもカルチャーも違う両業界の間にあった境界線がだんだんなくなっている。いろいろなものがコンピューターでつながり、ネットワーク化していく。
企業のコンピューターもダウンサイジング(小型機への代替化)が進み、家庭にもどんどんコンピューターが入っていく。
出井は、「デジタル技術、そしてコンピューターが与えるインパクトの大きさ、幅広さを認識しなければならない時期に来ている。アナログ製品、システムがデジタル化されるだけでなく、デジタル技術は産業のボーダーレス化を起こしている」と痛感していた。
「今、われわれは走り出さねば....。新しいデジタル時代に、ソニーがソニーらしくあるためには何をしたらよいか、そして何が活かせるか」——出井は考えた。
昔の歴史からは、たとえそれが成功でなくても、いや成功でないからこそ、学ぶものがある。出井は、「昔つくった“MSX規格”(米マイクロソフトとアスキーが共同開発した、8ビット家庭用パソコン)のコンピューターなどは、満足のいくものではなかった。しかし、ソニーには、今まで培った人材とワークステーション“NEWS"などのノウハウが確かに生きている。それがわれわれがほかのAVメーカーと違うところだ」。
見回してみると、過去にそれらソニーのコンピューターを手がけた情報処理系の若手エンジニアたちが、ソニーグループのあちらこちらに散らばって、コンピューターに精通した中堅どころとして、それぞれ活躍していた。
また、ソニーグループには、何と言ってもソフト制作力がある。音楽関係のエンタテインメントビジネスの基盤は早くから育てられ、80年代末には映画会社もグループに加わった。1994年末にグループ内のソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)が発売した32ビット・ゲーム機「プレイステーション」は、世界で爆発的な売れ行きを見せた。
ソニーの強みはまだある。コンピューターの周辺に得意のAV技術が活かされている。3.5インチMFD(マイクロフロッピーディスク)に始まり、WO ディスク(追記型光ディスク)、MOディスク(光磁気ディスク)、CD-ROM(CDを使った読み出し専用メモリー)など、コンピューター用のメディアも、磁気記録技術に光技術を加えて育ててきた。また、コンピューターが普及する中で、トリニトロンの高精細な画面は、ディスプレイ装置として、世界中で評価を高めている。
こうしたソニーの持つ力と将来を見据え、出井は、ある明確な目標を打ち出した。「ソニーの持てる人、そして技術の財産を活かして、ソニーらしいAVと ITを融合させたコンピューターをつくろうじゃないか」。
大賀も言う。「コンピューター、通信、AV、そしてエンタテインメントの融合が図れるのはやはりソニーだけだ」。単なるコンピューター機能にとどまらず、個人の楽しみ、エンタテインメント性のあるのが、ソニーらしさである。
1995年11月、ソニーは、米国の世界最大の半導体・コンピューターメーカーのインテル社と長期的な協力関係を結んだことを発表した。
インテル社の実績のある半導体・コンピューター技術。そして、ソニーの持つAVハードウエアとソフトウエアの技術。両社の持てる力を考え合わせたら....。将来の新しい家庭用コンピューター、さらには、コンピューター技術を応用した複合AV市場の創造への夢が大きくふくらんでいく。
インテル社長のグローブ氏と出井の間に固く握手が交わされた。そしてまず第1弾として、翌1996年秋からアメリカを皮切りに家庭向けパソコンを発売していく計画であると発表した。
この提携は、単にパソコンビジネス参入だけが目的ではなかった。コンピューターを売るとなれば、お客さまに対する販売・サービス体制も、AVビジネスとは変えていかなくてはいけない。社員の意識改革が必要であり、そのための起爆剤なのだ。そもそも、「デジタル・ドリーム・キッズ」のキャッチフレーズも、この意識改革のためだった。
出井の狙いどおり、「ソニーは会社の方針として本気でITビジネスに取り組むつもりなのだ。頑張らねば」と、社員の意識の上で刺激となった。
続いて同月20日、出井はニューヨークで開催されたNATAS(National Academy of Television Arts and Sciences=全米テレビジョン芸術と科学アカデミー)の第1回世界会議において「Sony's Dreams are Sony's Challenges(ソニーの夢はソニーの挑戦)」のテーマで基調講演を行い、全米、いや全世界のテレビ関係者、マスコミに向かって、デジタル時代に対応した今後のソニーの経営方針を高らかに述べ、大きな注目を浴びた。
年は変わり1996年となり、ソニーは創立50周年を迎えた。これは、同時に新しい50年の出発を意味した。
出井は、次のステップを、この出発の年の幕開けに踏み出すことにした。
ソニーのリ・ジェネレーション——カンパニー制・本社機能の強化を中心とする大幅な機構改革である。それは、次の50年に力強く生き抜いていくための新たな「ソニー丸」の土台づくりにほかならなかった。
「ソニーはチャレンジャー、守りの姿勢にならず攻めの創業の精神に戻りたい。人事・雇用から研究開発、生産、営業まですべてをリ・ジェネレーションしていこう」。
世の中では、アナログからデジタルへの技術の移行、情報通信分野の成長が、さらに勢いを増していた。「映像」のデジタル化が急激に進み、特に1996年は、DVD、デジタル衛星放送、デジタルCATV(有線テレビ)の出現で、新たに「デジタル元年」と謳われた。
また、流通革命も、急速度で進んでいた。2年前に導入した社内カンパニー制を屋台骨とする組織を、こうした外部の環境変化に対応できるように拡充して、新しい事業を興す機能を持った経営機構をつくろうと考えたのである。そして、社員全体の意識革命をさらに進めたいと願った。
1月半ば、機構改革の骨子は、社内外に向けて明らかにされた。まずは、カンパニーの再編である。今までの8つのカンパニーを、より機動力、市場対応力を増すように細分化し、10に再編した。そして、「若手に現場を任せてさらに企業家を育てよう」と、10人の若い人材を抜擢し、責任者たるプレジデントの職を任せた。
それだけでない。10のカンパニーは5つのグループに分けられ、チェアマンという経験豊かな人材が、プレジデントを強力にバックアップすべく配置されたのである。こうした、次世代の経営者を育成するための助言・指導体制を敷きながら、カンパニー制は生まれ変わった。
そして、「ソニー全体をコンピューターにたとえれば、OS(基本ソフト)にあたるのが本社機能だ。これをできるだけスリムにしながら、求心力を高めていこう」と、本社機能を強化する方針も打ち出した。その屋台骨となったのは、COO(Chief Operating Officer=最高執行責任者)である出井を議長に、計9人のシニア・マネジメントが構成する「エグゼクティブボード」の新設だ。9人の中には、COO である出井に加え、技術、経理・財務、人事、生産、販売、および広報・広告宣伝の6つの分野において、業務全体を総括する6人のチーフ・オフィサーたちが名を連ねた。
経営会議の方針に沿って、担当領域における戦略を実際に立案して、その実施を指揮していくのがエグゼクティブボードの任務だ。チェアマンに見守られた「新生」カンパニーのプレジデントとともに、がっちりした経営チームが誕生した。
ソニーは設立以来、戦後の日本経済の発展に歩調を合わせるように、自由闊達な「ソニースピリット」を武器にぐんぐんと成長してきた。ハードウエアとソフトウエアの融合を視野に入れたのはソニーのユニークさだ。
自己を改革して成長していこう——そのチャレンジ精神は衰えることなく、オーディオからビデオへ、さらに、通信、コンピューター分野も取り込んで、今やボーダーレスに拡大していく。
1996年5月7日。ソニー株式会社、創立50周年。首都圏のソニー社員とその家族2万人は、夢のあふれる東京ディズニーランドに集まり、賑やかにその日を祝った。同月24日、品川の新高輪プリンスホテルで、ソニーグループのマネージャーを集めた会議が開催された。大賀と出井は、これまでのソニーの50 年を支えてきた創業者たちの高い理想とビジョンに、改めて尊敬と敬意の念を表すと同時に、ソニーの向かうべき方向を明確に打ち出したのである。
3つのチャレンジが掲げられた。一つ目は、「本業のエレクトロニクスの挑戦」。AVのリーディングポジションをさらに強化しながら、全社的にITを積極的に取り入れていく。二つ目は、「エンタテインメントビジネスの挑戦」。クリエイティブな産業におけるマネジメント手法を本当に自分たちが確立していくにはまだ課題がたくさんあるという認識に立つものだ。
そして、三つ目の挑戦は、「エレクトロニクスとエンタテインメントを融合し、新しい事業領域を開拓する」。この三つの挑戦を続け、総合エンタテインメント企業というソニーの新しい将来像へ一歩ずつ近づいていくのである。
さらに、ソニーの競争力、そして最大の財産であるブランドイメージを高めていくため、ソニーグループの皆が分かち合うべき経営の基本姿勢が、四つの簡潔なキーワードに込められた。
新しいものを出し続け、常に期待をつくり続ける会社でありたい、そんな「ユニーク」さの追求を大前提として、商品の「クオリティー(品質)」面、大企業となっても速い決断、行動がとれるような経営の「スピード」面、そのそれぞれで優位性を守りつつ、「コスト」の競争力をつけていこう、と訴えかけたのである。特にクオリティー(品質)については、対応次第によって企業の『経営の質』の問題も問われる重要な問題として、次の50年に向けてより真剣な取り組みの必要が説かれた。
加えて、出井は「新しい商品、良い商品を提供するだけでなく、世界に認められるような『社会への利益の還元』を行って、ブランドへの信頼感を高めたい」という思いも語った。
「嬉しいことをたくさん皆が積み重ねていけば、会社は元気が出ます。そんな気持ちをみんなが持つことで、ソニーの今後50年をさらに輝かしいものにしていきたい」——出井はスピーチをこう締め括った。
新たな50年が目の前に広がる。21世紀はもうすぐである。いつの時代においても、ハードウエアとソフトウエア技術を通じて、ソニーは人々に新たな楽しみを提供する企業でありたい——そんな普遍の願いを胸に、新しくリ・ジェネレーションした「ソニー丸」に乗った「デジタル・ドリーム・キッズ」たちは挑戦していく。