1982年8月、1976年より社長を務めてきた岩間和夫(いわま かずお)が在職中に他界した。9月、社葬が済んだ後にただちに取締役会が開かれた。この席で副社長の大賀が岩間の後を継いで社長に就任した。大賀は、70年代、CBS・ソニーレコードを10年で業界トップのレコード会社に育て上げた経営者としての実績もあった。
東京・千代田区のパレスホテルで慌ただしく開かれた記者会見で、大賀はさっそく社長としての抱負を求められた。
長引く世界不況、主力製品の民生用VTRビジネスの苦戦など、頭の痛い問題を抱える中で社長に就任した大変さをわずかながらもらしたが、「諸先輩方が長い間に築き上げてきたSONYの四文字の持つブランドイメージ、これを私が経営を任されている間にいかに高めるかが、私に課せられた大事な仕事だと思います」と抱負を述べた。実はこのSONYの四文字への思いが、その後の大賀の経営方針の柱となるものだった。
東京芸術大学出身の元バリトン歌手でもある大賀は、「会社の経営はオーケストラの指揮のようなものだと思います。楽団のそれぞれの人に最大限の能力を発揮させることが、指揮者たる社長の役割だと思います」と、めざす会社経営を音楽家らしく語った。
大賀は、自ら先頭に立って規格をまとめてきたCD(コンパクトディスク)ビジネスも続けて牽引し、岩間の遺志を継いで半導体撮像素子「CCD」の量産化も軌道に乗せていく。こうした急務である重要な事業展開に加え、1兆円の売り上げを誇る大企業に育ったソニーのこれからを考え、常々「必要だ」と思っていた新しい経営方針、組織を実現すべく、采配を振るっていった。大賀の心には、いつもソニーを「一流企業」にしようという思いがあった。
「ベータマックスなどVTRだけに頼っていてはいけない。柱となるビジネスをいくつかに増やそう」
社長就任後まもない1983年の年頭所感で、(1)家庭用ビデオ「ベータマックス」などの既存商品の徹底強化 (2)半導体分野の強化 (3)テープメーカーとしての超一流化 (4)MC(マイクロコンピューター)、OA、CD、ニューメディアなどの新ビジネスの積極的展開 --- など、「ビジネスを厚く広くして、この荒波を乗り切っていこう」という新しい事業戦略を明らかにした。ソニーは確かに、70年代、民生用機器メーカーとして成長し利益を出してきたが、それ以外の半導体、コンピューターなどの分野への投資は、他社に比べて消極的であった。
中でも半導体に関しては、ほかの部品(コンポーネント)と併せて、「外販・OEM(相手先ブランドによる製品供給)」を行うことが、この時初めて会社の方針として明らかにされた。ソニーブランドと競合するコンポーネントの外販ビジネス自体、ソニーでは歴史的に一種のタブーであった。ましてや、半導体は、 70年代に集積化が進んだため、外販するには、莫大な投資が必要な事業となっていた。しかし、「デバイスの集積度、精密度が上がり、デバイスの中にすでに付加価値、ソニーならではの技術がある。これもビジネスにしていこう」と考えた大賀は、ソニーの歴史の中で一つの方向転換を行ったのである。
さらに、民生用機器(コンスーマー)ビジネスと「それ以外」のビジネスを、1990年までに売り上げベースで50対50にしていこうという方針も出された。「それ以外」に含まれるのは、70年代後半に急成長してきた業務・産業用(ノンコンスーマー)ビジネスと、部品(コンポーネント)ビジネスである。「コンスーマー対ノンコンスーマー対コンポーネント=50対30対20」という具体的な数字目標も立てられた。コンポーネントビジネスも将来に向けてソニーの基幹ビジネスの中にしっかりと位置付けられ、外販・OEMが本格的に開始された。
1984年1月に、単独・連結決算初の減収減益(1983年10月期決算)、主力製品ベータマックスの劣勢などを槍玉に挙げられた13時間半にわたる超ロングラン株主総会を経験すると、「いくつかのビジネスの柱をつくっていこう」という動きは、ますます加速されていく。
大賀は、組織面でも大なたを振るった。
「管理職全員がちゃんとしたバジェタリーコントロール(予算統制)をやらなければいけない」。会社の成長を見ながら、大賀は常々そう思っていた。それまでのソニーは、バジェットに対する考えが薄いように思えた。これまでは、井深、盛田など個性の強い創業者たちの求心力、強い技術力で会社の急成長を支えてきたが、もはや時代も変わり、大企業の仲間入りしたソニーはこれまでのようにはいかない。
「『航海』のためには、常に『海図』が必要とされる。バジェットこそが、企業経営という航海のための『海図』なのだ。ちゃんと初めに目的地に向かって筋を書く。それに対してプラスだ、マイナスだと言って『航海』していく仕組みにしなければ、会社は1兆円で足踏みしてそれ以上立派にならない」。こう考えて、大賀は、ソニーの中に小さな会社と同じような組織をいくつもつくり、そこでしっかりと「海図」を書かせることにした。それも、商品・技術主体の社風の中で、あまり目の向けられなかった生産、販売面も含めた「海図」だ。1983年5月の「事業本部制」の導入である。
大賀社長名で、事業本部制の憲法なるものが発布された。それは、ビジネス領域別に「小さな会社」である事業本部をつくり、事業本部長にソニー圏における製造から販売まで事業経営に必要な「責任」と「権限」を思い切って委譲し、「自己完結的経営」をしてもらおうと明言したものだった。これまで、組織的に分離した営業本部に任せがちだった販売領域までが、事業本部の責任下に入ったのである。事業本部は責任範囲内での利益最大化を任務とするとして位置付けられ、P/L(損益計算書)責任に加えて原則としてB/S(貸借対照表)責任を持ち、より厳しい採算責任を負うことになった。
事業本部制自体、目新しいものではなかった。しかし、ソニーの事業本部制には他社と違ったユニークな点があった。国内はもちろん、海外の販売までを事業本部の持つ責任・権限の範囲に含めたことである。こういう「連結発想」は今までにあまり育っていなかった。それまで「事業部」は、決められた量を納期に合わせてつくり、出荷を終えればそれで責任を果たしたことになっていた。大賀は、「モノをつくって出荷し、ソニー本社に利益をもたらしても、販売会社に在庫を増やし赤字にしたら意味がない。世界中の販売の出先まで神経をゆきわたらせ、生産もバランスをとらないと大変なことになる」という意識を新しい事業本部に植え付けたかった。
そして、大賀はこう呼びかけた。「組織的には販売が直接責任でない場合でも、事業本部長は国内外の各市場へ高感度のアンテナを張り巡らし、連結ベースでの販売成果を最大化するために最善を尽くしていただきたい」
技術・商品企画を優先させて発展してきた「開発型企業」と呼ばれるソニーだったが、生産・販売のバランスもとれた「一流企業」の体質をめざして、新しいスタートは切られた。
「SONYを、開発、商品企画、設計、製造、販売・サービスすべての面で一流にしたい。これからは、生産でも一流と呼ばれるようになろう」。こう思った大賀は、就任後真っ先に、「良い商品・設計のためには、良い生産技術が必要だ」と、それまで生産技術センターでやっていた生産技術とデバイスのグループをまとめて、1982年10月に「生産技術本部」を発足させた。
大賀の下で、1983年本格的に始めることになったコンポーネントの外販およびOEMビジネスだが、何しろ遅ればせながらの開始である。何を中心にやるか、どのマーケットを狙っていくかが、最初に検討された。同年6月に始めていた3.5インチマイクロフロッピーディスク・ドライブ(MFDD)のOEMビジネスが大手コンピューターメーカーとの間で成功していたことが、外販を本格的にスタートさせるきっかけとなった。
まず力を入れようと考えたのは、取り組みが遅れていたIC(集積回路)などの半導体だったが、基本的に、「ソニーが得意とするものを積極的に外部に売っていこう」という方針が立てられた。また、AV系、コンピューター系、メカトロ・磁気記録系、テレビ関係などがいけるのではないかということで、1983 年10月に開催された「エレクトロニクスショー」では、半導体、精密モーター、CRT(ブラウン管)などを部品館に展示して、対外的にも外販開始をアピールした。
本格的な外販を繰り広げるのであれば、営業部隊も必要だ。1984年7月、外販の窓口となる専門の販売部隊「コンポーネント営業本部」が設立された。
外販開始時の社内外の苦労は、いろいろな意味で大きかった。ゼロからの出発でなく、マイナスからの出発だったからだ。「コンポーネントの外販は、他社に金の卵を見せるようなものだ」。実際に外販用部品の担当になった技術者からは、「ソニーブランドの付かないモノづくりなどやりたくない」と意気消沈した声も聞こえた。
しかし、「他社に喜んで使ってもらえる、要するに、競争相手にも喜んで使ってもらって役立つものでなければ、ソニーの中で使う部品も本当に価値のあるものと言えないのではないか。他流試合でも勝てるようでなければ駄目だ。切磋琢磨してこそいいものはできるのだ」。こんな前向きな取り組みで、社内の抵抗を少しずつ取り払っていくことから始めた。
荒波の中でこぎ出したソニーの外販・OEMビジネスだったが、各所で取り組みが盛んになってくると、折からの生産技術力向上の気運に拍車をかける効果を生み出した。
OEMビジネスでは品質、価格、納期の条件を守り、注文数にフレキシブルに対応しなければならないので、より効率的な生産力が必要とされる。技術が良ければ、高くても売れるというわけにはいかないからだ。
「イノベーション86」のキャッチフレーズの下、全社的に繰り広げられた生産革新運動の中で、ベータマックスで味わった辛酸をバネに工場の自動化に取り組んだ「ソニー幸田」(愛知県)では、8ミリメカデッキの一貫自動化生産ラインにより、3年間で生産量を2倍にすることに成功した。また、ソニーアスコ(現コンポーネント千葉)のMFDDの完全自動化ラインは、ソニーがフォーマットの提唱者である3.5インチMFDDのOEMビジネスを生産面からしっかりと支えた。外販によって、ソニーの生産力、コスト意識はさらに鍛えられていった。
1986年に生産技術本部長と部品事業本部長を兼任して、生産革新運動と、外販・OEMビジネスの加速を総合的に進めたのは、金田嘉行(かねだ よしゆき)である。部品点数を減らすなど、生産しやすい設計を考える「生産設計」の概念、IE(インダストリアル・エンジニアリング)手法の開発・改良、人と機械がうまく役割分担をした自動化など、ユーザーの視点に立った生産革新運動を進める一方で、CDの光ピックアップなどの光デバイス、8ミリなどのVTR用ヘッドなどの磁気デバイスを、外販ビジネスの2本柱として特に力を入れていった。
CDというシステムを開発して、その規格の採用を各社に求めるだけでなく、光ピックアップなどCDプレーヤーの重要なデバイスを供給していくことで、世界におけるCDビジネスもいち早く立ち上げられていった。(第2部第8章第4話参照)
その陰には、「キーデバイス生産の海外展開」にいち早く乗り出した金田たちの決断があった。イノベーション86を推し進める最中に起こったプラザ合意(1985年9月)が一つのきっかけとなる。ますます円高が加速していくと、日本の各社は南アジアに進出してCDのセットの生産を行っていくだろう、そこに部品の需要が生まれるはずだ --- と金田たちは読んだ。そして、「マーケットのある所で生産しようというのは、ソニーの昔からのポリシーだ。ならばもう一歩先んじて、キーデバイスの海外生産展開によりマーケットをつくってしまおうじゃないか」と、高度な生産技術を有する、SPEC(Sony Precision Engineering Center)を、1987年にシンガポールに開設したのである。SPECは、光ピックアップをはじめ、VTR用ヘッド・ドラム、電源などの自動化生産工場であり、ソフトウエア開発を含め、アジア地域の総合生産技術センターとして重要な存在となっている。
1994年、大賀が社長就任時の1982年に約1兆円だったグループ連結売り上げは、何と約4倍の4兆円近くに達していた。
これというのも、独創的な商品開発、音楽・映画ビジネスへの本格参入、生産・R&Dの海外展開など、ソニーの成長に欠かせない経営判断があったからこそだ。こうしたソニーの成長を支えてきたのは、1983年に導入した「事業本部制」だった。
盛田や大賀は、90年代に入ると「事業本部制は、80年代という成長の時代に即応した体制だったな」と思うようになった。確かに、事業責任体制を徹底した事業本部制は、各事業を結束させ、製品別に強力な推進力を発揮してきた。CDに続きミニディスク(MD)、コンピューター記録メディアの3.5インチ MFD、キーコンポーネントであるリチウムイオン二次電池など、ソニーらしく、世界初の製品を次々に世に登場させた。ところが、景気後退と円高の影響もあって、ソニーはマイナス成長を余儀なくされた。また、1993年11月末に現役の代表取締役会長であった盛田が病に倒れ、ソニーには厳しい状況が重なった。その状況を打破するため、大賀の采配により、組織の大改革が行われることになった。
事業本部制を否定するものではなく、それをさらに進化させた本来のソニーらしい体制が、分社化の思想に基づく「カンパニー制」だ。1994年4月、19 事業本部を8つの「カンパニー」という事業単位に括り直し、それぞれ製造から販売までの責任者として「プレジデント」を置いて、事業本部長よりもさらに大きな責任と権限を委譲したのである。めざすは、よりスピーディーかつ自律的な組織だ。
たとえば、8人のプレジデントには、従来社長が有していた権限のうち、一定規模内の投資決裁権やカンパニー内の人事権(部門長以下)などが委譲された。また、事業本部制の時よりも、さらに厳密なP/L責任とB/S責任、加えてキャッシュフローの責任が課されることになった。大賀は、各プレジデントたちには、資本金を持って株主に対する経営者としての責任を負って自己完結型の組織運営を行う一企業のオーナーになったつもりで企業家精神を発揮してもらおうと考えた。より自律的な「小さな会社」と「小さな社長」たちがソニーの中に生まれた。
「それではソニーの社長の役割は何か」と記者たちに問われて、大賀はこう答えた。「各カンパニーには、毎年株主総会を開くつもりで経営にあたってもらうので、社長の私は、いわば『株主』として経営をチェックし、疑問があれば、どんどん指摘していくつもりです」
事業本部制の時と同様、大賀の名で「カンパニー制の導入にあたって」というメモが出され、具体的な狙いは5つにまとめられて伝えられた。(1)中核ビジネスの一層の強化と新規ビジネスの育成 (2)市場対応型組織を導入し、製造・販売一体となってマーケットの要請に対応 (3)事業責任の明確化と権限の委譲により、外部変化に迅速に対応できる組織の構築 (4)階層の少ないシンプルな組織 (5)企業家精神の高揚を図り、21世紀に向けたマネジメントの育成。
大賀はそのメモの中で、「今回の機構改革の狙いは、ソニーという会社を生き生きとした風通しの良い会社に戻すことだ」と、真っ先に明言した。実際、ソニーの組織はこのカンパニー制の導入により、かなりすっきりした。これまでは、会社の最高意思決定機関である経営会議の下に、セクター長以下最大6層の管理職がいたが、経営会議に直結したプレジデント以下最大4層の階層となった。会社の上層から一般社員までの距離をできるだけ短くしようという試みである。また、580以上あった部以上の組織も、約450に減った。
こうした「社内分社化」による、身軽でかつ自律的な経営体制にソニーらしさを求めながら、あくまで大賀らは、「ソニーは一つ」であることも強調した。日常のビジネスについては、8カンパニーのそれぞれが最善の努力をするとしていくとしても、会社全体に関わる重要な経営方針や、経営のフィロソフィーは、あくまでソニーという一つの名前の下で統一されたものでなければならないのだ。
1994年11月、ファウンダー名誉会長の井深が「ファウンダー・最高相談役」に、かねてから病気療養中だった代表取締役会長の盛田が「ファウンダー・名誉会長」に就任し、会長職は空席となった。ソニーの創業者である2人が現役経営陣から退任した。
「カンパニー制」も、軌道に乗ってきた。その頃大賀は「もう社長になって12年以上が経つ。将来のソニーを担う次世代のマネジメントをうまく育成しバトンタッチするのが、社長としての最後のそして最大の責務だ」と考えていた。だからこそ、カンパニー制を導入して、プレジデントたちを中心に頑張ってもらおうと考えていたのである。
そして、1994年も終わろうとする頃、大賀は心の中に自分の後継者として一人の人間を描いていた。
年が明け、創立50周年を翌年に控えた1995年となった。3月22日、臨時取締役会の後、新社長を中心とする新体制が、千代田区のパレスホテルで発表され、その内容は社内外をあっと言わせた。大賀が13年務めた社長のバトンを渡したのは、前年常務になったばかりの、広告・宣伝、デザイン、広報部門担当の出井伸之だった。
出井の社長就任とともに、大賀の会長就任、そして副社長の橋本綱夫(はしもと つなお)の副会長就任も発表された。大賀が考えたのは、カリスマ性を持つ少数経営者の求心力で発展するのではなく、会長(CEO)、副会長、社長(COO)、チーフオフィサー、そして各プレジデントがチームワークでソニーという船を操縦する協力体制だ。
大賀が出井を社長に選んだ理由には、ソニーの向かう方向が示されていた。「技術者に限らず、技術の分かる人。その時代に求められている技術に明るい人。そしてその進むべき方向が分かる人。さらにソフトの分かる人。国際人であること。こうしたことを考えたら、出井さんになった」。最初は大抜擢人事に驚いた社内外の人々も、この大賀の言葉と、出井のそれまでのキャリアを考え併せ、なるほどと納得していった。出井は、35年前に「ヨーロッパで伸びる会社で働きたい」という動機でソニーに入社した。その後、60年代、70年代の10年近くにわたるヨーロッパ駐在を経て80年代、技術系出身ではないながら、オーディオ、コンピューター、VTRなどの事業本部の責任者を歴任。さらに90年代は広告・宣伝、デザイン、広報部門の担当役員としてソニーブランドのイメージアップに貢献してきた。
出井にとって、社長就任の記者会見に続く大仕事は、4月3日の新入社員の入社式だ。新社長は、約270名全員と握手をし、終わりには手がしびれてしまった。そして、壇上でこう挨拶した。「頑張ってくださいと皆さんに申し上げましたが、途中からは自分に頑張れと言っているような気持ちになりました。来年はソニーは創立50周年を迎えます。ソニーにとっては第2創業期のスタートであり、新たに生まれ変わる時だと思っています。皆さんも連結売り上げ4兆円規模の大企業に入社したと思わず、これから生まれ変わる会社に入社したと思ってください」