SONY

第1話 「SONYブランド」の出発

米ブロードウェイのタイムズスクウエアに掲げ
られた“SONY”のネオンサイン

 CI(Corporate Identity)とは、「企業の特質・全体像を大衆に認知させること」。
 まだ、ソニーが小さな名も知れない会社で、日本にCIという言葉すら生まれていなかった頃、ソニーはCIを無意識のうちに重要視し、「ソニー」というブランドを広く、強く、世界に知らそうとした。

 1955年。井深や盛田が率いる東通工は、小さいながらも世界に羽ばたくために、誰にでも発音できる世界共通の商標をと、“SONY”の四文字の商標をつくった。
 そして、アメリカの大手時計会社から「SONYでは無名で売れっこない。わが社のブランドで売らせてくれるのなら、10万台のトランジスタラジオを注文しよう」と、市場調査と商談のため渡米中の盛田(当時専務)に申し出があった時も、喉から手が出そうな商売であったにもかかわらず、「SONYのブランドを付けなければ意味がない」として断った。「50年前、何人の人があなたの会社を知っていたでしょう。私たちの会社は今、50年の第一歩を踏み出したばかりだ。50年後には、あなたの会社と同じくらいSONYを有名にしてみせる」と。

 そして1958年。「ソニーブランドの東通工」と呼ばれた東京通信工業は、社名そのものを「ソニー株式会社」にしたのである。(第1部第7章第4話参照)
 発音しやすい世界共通の四文字。井深が書いた設立趣意書のスピリット「自由闊達」の流れを汲み、小さくても、はつらつとしたやんちゃ坊主という語源。「電機」など特定の事業の意味を含まず、創業者の名前にも縁はない。この社名は、当時の日本では大変異質なものに受け止められたが、そこには、井深や盛田の、未来を見通した先見性があったのだ。

 ここを出発点に、ソニーのブランドイメージは大切に守られ、そして高められていく。それも、意識的に「育てよう」という意志を持って。「企業イメージはつくれるのです。意識的につくらなければいけません。私はそういうふうにビジネスを進めてきた」と盛田は後に語るのである。モノづくりと同時に、企業イメージもつくり上げる。目や耳に訴える具体的なCI活動もあれば、目に見えないCI活動もあった。

 ソニーのCIは、決して、「他社がやるからうちもやらなければ」というブームに乗って、有名なデザイナーや代理店に頼んで、ロゴや社歌などをつくったり、社名変更を行う表面的なものでない。「人がソニーの名前を聞いて思うこと」。それが、ブランドイメージだとすれば、それは企業が持つ文化そのものだ。 SONYの四文字のロゴを大切にし、その普及に心を砕くと同時に、まずは「商品ありき」でモノづくりに始まり、広報・宣伝活動、経営者をはじめ従業員の個性、事業展開、経営方針、企業風土など、創業以来の企業活動の集大成として、SONYの四文字の持つ力は育て上げられていく。

第2話 インパクトのあるキャッチフレーズ

ソニーロゴの変遷(上から、1955
年、1957年、1961年、1962年、
1969年、1973年のもの)

 ソニーでは、目に訴えるブランドネームである“SONY”四文字のロゴそのものも、昔から非常に大切にされ、使い方にもこだわってきた。
 一番最初のロゴは、1955年に初めてSONYを商標登録した時に作成された、四角で囲まれたものだ。その後、このロゴは、少しずつ姿を変えながら、 60年代から活発化した世界進出とソニーブランド訴求と歩調を合わせて、ニューヨークや香港など、外国企業のネオンサインのひしめく世界の一等地に堂々と掲げられたのである。1959年には、ロゴを活かすキャッチフレーズとして「日本が生んだ世界のマーク」というキャッチフレーズも生まれた。「Research Makes the Difference」というキャッチコピーが使われるようになったのもこの頃である。

 ロゴの完成度に徹底してこだわった一人に、デザイナーの黒木靖夫(くろき やすお。のち取締役)がいた。社名変更後の1961年、香港の一等地に日本企業として初めてネオンサインを掲げることになったのだが、それまでのロゴではネオンサインに弱いだろうということから修正することになった。盛田から「お前がつくってみろ」と言われた黒木が、知恵を絞ってつくり直した新しいロゴは、翌年から売り出されたマイクロテレビの広告にも使われた。何しろ社名ロゴは絶えず人の目に触れるものだ。

 洗練されたロゴにつくり上げるため、当時のデザイン室(室長:大賀典雄)にロゴ委員会も編成され、1962年に修正された時点から使用規定を設け、コーポレートデザインへのアプローチが行われるようになった。SONYの四文字が連続した文字の塊として美しくバランスよく見えるようにと、何度か手が加えられた。文字が細い、Sの字が歪んで見える……。納得するスタイルに落ち着いたのは、最初のSONYの商標ロゴから数えて、実に6番目、1973年のことだった

 ソニーが創立35周年を迎えた1981年、「新しいロゴをつくろう」と世界からデザインを公募したこともあったが、結局、井深と盛田の「今のロゴのほうが明快で良い」の言葉で、1973年にできたデザインがその後も守り続けられている。1982年には、唯一のビジュアルアイデンティティーだったSONY という文字のロゴに加えて、絵で語らせる第二のビジュアルアイデンティティーと、音で語らせる「サウンドロゴ」も誕生した。
 SONYの「S」の字をデザイン化した「Sマーク」を盛田の所へ「どうですか」と持って行くと、「テレビCMで使う時、絵だけでは面白くない。マークを見せて『これは何だ』と思わせた後に、『It's a SONY』というサウンドで締め括ったらもっとインパクトがある」と提案があった。こうして、あらゆるソニー製品のCMの後には、必ずこの絵と音で「ソニー」という企業を印象付けるCI戦略が行われるようになった。

 1975年にベータマックス、1979年にウォークマン、80年代の8ミリVTR・ハンディカムシリーズ——ソニーは新たな市場、ライフスタイルを創造する製品を開発していく。
 まだ、世の中に存在していない製品だから、「この製品はどういうものか」「どのように使ってほしいか」を効果的に消費者に伝えるには、宣伝部の果たす役割は大きい。宣伝部も商品企画の段階から加わり、商品の開発と並行して宣伝のキャッチフレーズも考えた。効果的なネーミングと、インパクトのあるライフスタイルの提案。「ひと言で言えば……」と、あるキーワードをつくり出して、新製品の特性をずばりと言い表すのがソニーの独特の手法だった。歩きながら音楽を聴いてほしいヘッドホン付小型カセットテーププレーヤーには「ウォークマン」(第2部第6章第3話参照)。鞄に入れて旅に持って行ける小型8ミリカメラ一体型VTRには「パスポートサイズ」(第2部第3章第1話参照)のキャッチフレーズ。SONYの四文字に加えて、次々に、多くの人の口に上るソニーの商品ブランドが生まれていく。

 こうした目に、耳に訴えるCI活動で、ソニーブランドはお茶の間に浸透し、そのイメージは高まっていく。

第3話 ソニーデザイン

ブラック&シルバーデザイン
の“イレブン”

 本業のモノづくりでも、当然ながら、ソニーらしさ、ソニーのブランドイメージは大切にされた。世界最初、世界最小、世界最大、世界最高——ソニーは常に先進的な技術、商品企画を武器にしてきた企業だ。だからこそ、「誰もやっていないことをやろう」という創業精神は、プロダクトデザインにも発揮され、絶えずオリジナリティーと先進性を世にアピールした。「ウォークマン」しかり、「プロフィール」しかり、「ハンディカム」しかりである。

 特にデザインの美しさへのこだわりを持っていたのは大賀だ。「美しくない商品に“SONY”は付けない。美しくサービスしやすいのが究極のインダストリアルデザインだ」
 1960年代初め、ソニーのラジオの市場シェアが低下の一途をたどる中、盛田は当時第2製造部長だった大賀に「商品企画の大将をやってくれ」と持ちかけた。大賀はこれに対して「デザインと広告宣伝を一緒にやらせてくれなければ責任を持てません」と言って、それまで、各設計課にバラバラにあったデザイン係を統合して、デザイン室をつくったのである。そこで生まれたのが、「ブラック&シルバー」配色のデザインだ。金属の持つ銀色とプラスチックの黒色だけで、精悍な機能美を表現することができる。

デザインの斬新さが話題を呼
んだが、品質も一流だったサ
イテーション

 大賀の思いの込められた最初の商品は、FM放送を高感度で受信するラジオ「TFM-110」、通称「イレブン」。「ラジオは横長」の常識を打ち破った斬新な正方形のデザインに加えて、ブラック&シルバーのデザインは高い評価を受け、イレブンの爆発的な売り上げにつながり、その後のソニー製品に広く受け継がれるデザインの一つとなった。
 また、余分な装飾を取り除いたシンプル志向、機能美あふれるソニーらしさは、70年代にも発揮された。最初の「トリニトロン」が発売されてから10年近くが経ち、カラーテレビ市場が成熟する中、「従来の13インチのテレビに付加価値を付けてソニーらしいデザインで出そう。若者向けのテレビにしよう」と当時副社長だった大賀が自ら商品企画から手がけたのが「サイテーション」。その頃、世の中のテレビのデザインの主流は、まだ一点豪華主義の木目調のものだった。1977年5月に発売されると、ゴテゴテしたものを取り除き、操作スイッチを上部に配するという斬新なデザインは人気を呼び、それ以降のカラーテレビのデザインに大きな影響を与えた。

 70年代末になると、音声多重放送が開始され、衛星放送やパソコンなどニューメディアが登場する。こうした新しい技術の流れの中で、サイテーションの流れを汲みながらさらに新しいカテゴリーのテレビをつくろうと、テレビ事業部は模索を続けた。盛田は自ら、今度はチューナーやスピーカーの付いていない「モニターテレビ」の発想をデザイン部門に持ちかけた。そして、木枠もコントロールの部分もすべて切り落とした「素テレビ」「裸テレビ」「セパレート」というアイデアがデザイナーたちの間から生まれ、形にされていったのである。モニタールックと呼ばれる革新的デザインのテレビ「プロフィール」(“プロのフィーリング”が語源)が発売されたのは1980年。コンポーネントとして複数台組み合わせても使えるデザインは、家庭だけでなく、ニューメディア時代の新しい要請にも合い、他社もこのデザインを追随することになる。

「最新鋭トリニトロンは
『裸』です」と広告された
“プロフィール”

 余分な機能と装飾を削ぎ落とす——この発想は、プロフィールと同じ頃に発売された「ウォークマン」の商品企画とデザインにも生かされた。
 「買ってよかった、使ってよかった、捨てる時も満足、次もソニーの商品を買おう、とお客さまに思ってもらえるモノづくりをしよう」「心の琴線に触れるモノづくりをしよう」——大賀は1982年に社長に就任した後、デザインを含めたプロダクトプランニングの大切さを、意識的に強調し続けた。会社が大きくなり、たくさんの新製品が出てくるようになると、今までは無意識のうちに受け継がれてきたプロダクトフィロソフィーが、失われつつあるように感じたからだ。

 大賀は言う。「一本筋の通ったプロダクトフィロソフィーこそ、ソニーブランドの根幹だ。そのプロダクトフィロソフィーに基づけば、会社が大きくなっても、グローバル化が進んでも、長期間にわたっても、デザインの一貫性が生まれる。お客さまから見れば、ソニーは一つなのだから」

第4話 ブランドイメージ、ナンバーワン

 SONYという商標、社名を決めた時に描いた未来像のとおり、ソニーは積極的な国際展開と事業の多角化によって、ブランドイメージを高めていった。特に盛田がソニーの事業の海外展開の際に示した先見性と決断力は、世界において「国際企業」としてのソニーへの知名度、評価を著しく高めた。一企業の経営者の立場に止まらず、広く日本と世界の関係を視野に入れた言動、率直でオープンな人柄は、個人的にも「国際人」として世界で高い知名度を築き、多くの知人を国内外に得た。それは、そのままソニーのイメージにも還元されていく。

 エレクトロニクスの枠を飛び越えた多角的な事業展開、新しい制度への挑戦は、「人のやらないことをやる」「チャレンジ企業」としてのソニーのイメージをますます高めていった。SONYと聞いて世界の人が思い浮かべる「顔」——ブランドイメージ——は、こうした有形無形のすべての企業活動の積み重ねの中で、つくり上げられていったのである。

 1990年に、米ランドーアソシエーツ社が日・米・欧の世界規模で行った企業のブランドイメージ調査で、ソニーは「評価度」で世界第1位、「知名度」では第4位、総合順位では「コカ・コーラ」に続く第2位の栄誉を得た。大賀(当時社長)は、ことのほかこの評価を嬉しく受け止めた。社長就任以来、井深、盛田、岩間の築いてきたSONYのブランドイメージをさらに高めることを最大の任務と公言して、一流企業の体質をめざした数々の経営方針・体制の変革を行い、ハードとソフトを両輪としたビジネスを推進してきたからだ。
 1955年、盛田は米国の大手時計会社ブローバー社からきたトランジスタラジオの注文を断った際に「50年後にはソニーを世界的に有名にしてみせる」と胸を張って言った。それから40年。その言葉は、真実となっていた。世界中にSONYの四文字が拡がり、老若男女がソニー製品を愛し、その企業文化は高く評価されるところとなっていた。

 「SONYの四文字は最大の財産だ。しかし、なぜこんなにブランドイメージが高くなったか、改めて考えて整理しなくてはいけない。それが、これからのソニーの行動指標、経営指標になるからだ」と大賀は語っている。