インタビュー
両足院 副住職
伊藤 東凌
「“禅×テクノロジー”で
境界を超える」
世の中の先行きを予見し、未来の方向性を考えるソニー独自のデザインリサーチプロジェクト「DESIGN VISION」。
クリエイティブセンターのデザイナー自らがリサーチやインタビューを行い、分析や提言につなげる取り組みです。
2022年は世界の変化をいち早く捉えるため、世界各地でフィールドリサーチを行いました。社会の変化を自分たちの目で観察し、分析を行っています。
本記事では、第一回目の記事で説明した「The Balancing Act」という包括テーマの下、個人や生活者のマインドセットにフォーカスしたテーマのひとつ
「Peace Off」の紹介とともに、フィールドリサーチで京都を訪問した際にインタビューを行った両足院 副住職 伊藤東凌氏のインタビューを転載。
混沌の時代に対処しようとする新しいマインドセットについて考えていきます。
「DESIGN VISION Annual Report 2022」における位置付け
「DESIGN VISION Annual Report 2022」では、デザイナー自らが世界各地でリサーチを行い、気付きや洞察からインサイトを抽出し、未来に向けて注目すべき4つのテーマを導き出しました。
このテーマのひとつが「Peace Off 内なる平穏と普遍的な平和を求める人々」です。
新型コロナウイルスによるパンデミックや気候変動等といったさまざまな不安要因が存在するこの混沌の時代に、シンプルな生き方で対処しようとする新しいマインドセットやライフスタイルを捉えました。健康とウェルビーイングがますます重要性を増しており、人々は新しいアプローチで休息を求めています。
この動きのなかで、テクノロジーはウェルビーイングを後押しするものになりつつあります。リラクゼーションのための⾷品や飲料、AIを活⽤した健康法、瞑想アプリの市場拡大などがその例です。混沌とする人々の感情を穏やかにする解決策の⼀端をテクノロジーが支えています。
この流れをいち早く取り入れているのが、Z世代の⽣活者たち。彼らは競争的なキャリアレースに参加するよりも、自己実現、幸福感などの価値観に共鳴し、快適でシンプルなライフスタイルを求めているようです。
心の平穏と平和を求める「Peace Off」なライフスタイルの実現は、個人だけでなく、広く人間社会と地球にも利益がもたらしてくと考えています。
ウェルビーイングと禅の関係を探るべく、テクノロジーを駆使しながらクリエイティブな禅のあり方を探求している京都両足院の副住職 伊藤東凌氏にインタビューを行いました。
禅とウェルビーイング、
テクノロジーの可能性
禅を軸にしたプロジェクト
伊藤さんは、室町時代に建立された両足院の副住職として、オンライン坐禅会やスマートフォンアプリを展開されるなど、テクノロジーを活用しながら禅の思想を広げる活動に取り組んでいます。コロナ禍の影響もあり、人々の間で自らウェルビーイングを高めようとする傾向が高まるなかで、禅とテクノロジー、ウェルビーイングの関係についてお話をうかがいたいと考えました。
私は臨済宗の大本山・建仁寺の塔頭寺院*1である両足院に生まれ、龍谷大学哲学科教育学専攻を卒業後に3年間、臨済宗建仁寺派の専門道場で泊まり込みの修行を経て、両足院を拠点に国内外で禅や心の整え方にまつわる活動を行ってきました。
例えば2018年には、“禅が育む美と叡智を表現するプロジェクト”として「是是XEXE」を立ち上げました。禅の考え方を核として、既存のお寺の枠を超えたコミュニケーションによって衣食住にまつわる事柄に取り組んでいます。
コロナ禍が始まってからは積極的にデジタル活用に取り組み、20年7月に禅を暮らしに取り入れるためのスマートフォンアプリ「InTrip」をリリース、21年4月にはオンライン坐禅会「雲是(うんぜ)」を立ち上げるなどしています。
是是XEXE
問いの創発としての「是とは何か」「何を是とするか」という命題を、最新テクノロジーを用いたシステムやデジタルコンテンツと融合させ、未来の禅の姿を多彩に表現する事で、伝統と精神、文化を次世代に継承するプロジェクト。写真は、「忘是(もうぜ)」のデジタルアート作品。「点」のランドスケープと「うねり」のサウンドスケープにより禅の世界観の一端を表現している。
禅・瞑想アプリ「InTrip」
"いつでも、どこでも、手軽に"、禅を生活に取りいれることのできるアプリ。3分間の音楽とともに、瞑想する「気づく」、問いと向き合い、想像力を高める「ほどく」、ポジティブな心を作る「しるす」などのカテゴリが設定されており、好きな時間に好きなプログラムを、1日3分から取り入れることができる。
自分自身に問いかける「是」
どの取り組みも、お寺の枠を超えて外部とのつながりを広げる目的で展開されているのでしょうか。
はい。古くは檀家制度に始まり、近年は法要や体験プログラムでの交流の域を超えていなかった外部との関わり方を、もっと広げていきたいと考えています。
その点で「是是XEXE」の活動はコラボレーションのプラットフォームのようなイメージです。「是非」という言葉がありますが、「是」と「非」は反対の言葉であり、元々は「是があったり、非があろうとも、来てください」「裏腹なものがあってもお含みください」といったような意味だったそうです。一方で何を「是」とするか、かつて「是」としたものを今も「是」といえるかどうかは、自分に対する問いかけです。そのように問い続ける姿勢を、お寺から発信したいと考え、「是是XEXE」という言葉をスローガンとして掲げました。
核の部分が禅や仏教と
合致していれば
メディアにとらわれる
必要はない。
表現の定義を
固めるのではなく、
禅らしく探求して
いこうと思いました。
核の部分が禅や仏教と合致していれば
メディアにとらわれる必要はない。
表現の定義を固めるのではなく、
禅らしく探求して
いこうと思いました。
核の部分が禅や仏教と合致していれば
メディアにとらわれる必要はない。
表現の定義を固めるのではなく、
禅らしく探求して
いこうと思いました。
核の部分が禅や仏教と合致していれば
メディアにとらわれる必要はない。
表現の定義を固めるのではなく、
禅らしく探求していこうと思いました。
核の部分が禅や仏教と合致していれば
メディアにとらわれる必要はない。
表現の定義を固めるのではなく、
禅らしく探求していこうと思いました。
核の部分が禅や仏教と合致していれば
メディアにとらわれる必要はない。
表現の定義を固めるのではなく、
禅らしく探求していこうと思いました。
核の部分が禅や仏教と合致していれば
メディアにとらわれる必要はない。
表現の定義を固めるのではなく、
禅らしく探求していこうと思いました。
ご自身を「古今表現者」と自称されていますが、どのような意味を込めているのでしょう。
修行を終えて両足院へ戻ってきて以来、書や掛け軸など、約300点の文化財を今の人に伝えるにはどうしたらいいか、常々考えてきました。当院は焼き物との縁が深いこともあり、古い焼き物と現代作家のものを並べてみて、古いものと新しいものを対峙させることが学びになるはず、と考え始めたのです。
昔は掛け軸、屏風、襖(ふすま)、彫刻など、メディアごとのフォーマットが決まっていましたが、今は写真技術を使った襖や、映像で没入感のある体験を作るなど、核の部分が禅や仏教と合致していればメディアにとらわれる必要はない。表現の定義を固めるのではなく、禅らしく探求していこうと思いました。
そこで、「是是XEXE」プロジェクトの一環として両足院で現代アートの展示などを行い、21年にはオンライン空間上に「ヴァーチャル両足院」を立ち上げ、リアルとバーチャルが連動した「両足院マルチバース展」を開催するなどしてきました。
そして、自分がやってきたことを一言で表すなら、アーティストとコラボレーションして表現を作っていく立場なのではないかと思い、「古今表現者」を名乗ってみたというわけです。
「ヴァーチャル両足院」にて展示される作品群。是是プロジェクトの説明や今までの活動の写真が展示されている。また、両足院保有の重要文化財「三教図」も高精細スキャンしてデータ化。同会場でデジタル展示が行われている。
世界的な“瞑想ブーム”が
映し出す
現代の課題
禅の姿勢
伊藤さんが日々実践されている“禅”とは、そもそもどのようなものなのでしょうか。
私は、可能性を信じ抜く態度のことだと思っています。海外で禅を広めた仏教学者の鈴木大拙(すずき だいせつ)は、「仏教における禅というものに、禅というものを留めてはいけない」と語っています。つまり、「仏教はこうだ」とか「これが当たり前」とか、時代とともに決められてきたことに対しても、「いや、そんなことはない。まだもっと人に届く可能性があるはずだ」と信じ抜くこと。禅の考えは、その姿勢から始まっているというのが私の考えです。
そもそも日本の禅は、お寺の組織同士による派閥争いが激しくなり、もはや何を信じていいかわからない状態のなかで、お釈迦様の体験したことに立ち戻ろうと、修行形態に重きを置いて体験主義を取ったことがきっかけになっています。そこから視点を広げるならば、表現やデザインにおいても出口のアウトプットだけを見るのではなく、源流をしっかりたどることによって、さらなる可能性が拓けるように思います。
時間を徹底的に管理し、
効率化を最優先する
昨今の風潮に対して、
禅や瞑想は生産性を
手放してしまう行為です。
時間を徹底的に管理し、
効率化を最優先する
昨今の風潮に対して、
禅や瞑想は生産性を
手放してしまう行為です。
時間を徹底的に管理し、
効率化を最優先する
昨今の風潮に対して、
禅や瞑想は生産性を
手放してしまう行為です。
時間を徹底的に管理し、
効率化を最優先する
昨今の風潮に対して、
禅や瞑想は生産性を
手放してしまう行為です。
時間を徹底的に管理し、
効率化を最優先する昨今の風潮に対して、
禅や瞑想は生産性を
手放してしまう行為です。
時間を徹底的に管理し、
効率化を最優先する昨今の風潮に対して、
禅や瞑想は生産性を手放してしまう行為です。
時間を徹底的に管理し、
効率化を最優先する昨今の風潮に対して、
禅や瞑想は生産性を手放してしまう行為です。
ここ数年、特にアメリカ西海岸のデザイナーやエンジニアの間で瞑想がブームになっています。今や世界的に、人種や宗教にかかわらず生活に禅を取り入れる動きがみられるのは何故でしょうか。
大きな理由としては、自分の心が体や呼吸とつながっていて、自分で調整可能なものだということに対する驚きがあるのでしょう。自然とのつながりによって自分ができあがっているー日本では当たり前の感覚ですが、実は仏教思想や儒教、道教の考え方が反映されたものです。心と体は対立するものでも同一でもなく、お互いに絡み合う「不二(ふに)」のものである。この考え方を「心身不二」と呼びます。一方で西洋の考え方は17世紀の哲学者、ルネ デカルトによる「心身二元論」の影響が大きく、心と体は基本的に別のものだと捉えられてきました。
その上で、アメリカ西海岸のデザイナーやエンジニアたちが何故、禅や瞑想に着目したのか。答えは"時間"にあるのではないでしょうか。時間を徹底的に管理し、効率化を最優先する昨今の風潮に対して、禅や瞑想は生産性を手放してしまう行為です。効率化・生産性の戦いとはまったく異なるところに大事なことがあると気付かせ、精神にゆとりを生み出していく点で、いわば"心の革命"とも呼ぶことができるでしょう。
瞑想という技術
その一方で、コロナ禍によって多くの人が孤独を感じ、先行きの不安などと向き合うなかでネガティブな気持ちにとらわれる例が多くみられます。自分と向き合いながら未来の可能性を信じるには、どうすればいいのでしょうか?
コロナ禍をある種の契機として、他人の価値観に縛られるのではなく、自分自身の優先順位を意識して生きていかないといけないことに、多くの人が気付いたように思います。そして、その気付きを経て多くの人同士が互いのつながりを得たのも事実です。しかし問題は、自分との向き合い方にあるのではないでしょうか。
日本で瞑想というと多くの方が、「無」という言葉のように雑念を捨てて何も考えない状態を思い浮かべます。しかしそれは究極的な話であって、そこへ至る技術的な段階があるのです。サッカーにたとえるなら、ドリブル、パス、シュートの技術を身に付けて初めて試合ができるようになる。瞑想に関しては、技術を身に付けることで、座らなくても、寝転んだり歩いたりしながらでも瞑想できるようになります。古くはお茶を点てるお手前や、お花を生ける所作など、日本の暮らしの中にも瞑想的な時間があったのですが、今やそうした習慣はほとんど失われてしまいました。
今回の「DESIGN VISION」のリサーチでは、広島県福山市の「神勝寺 禅と庭のミュージアム」を訪問し、アーティストの名和晃平が手がけた瞑想空間「洸庭(こうてい)」を体験しました。そこで実感したのは、雑念を拭うことがいかに大変か。そして、どうすれば瞑想を新たな創造性に結び付けることができるのか?ということです。
雑念は誰にでも、常にあるものです。そして雑念を感じるということは、自分の内部を細かく観察できている証拠でもあります。まずは、自分の心とはそういうものだと知ること。そこから気付きをどう高めていくかが大切です。
人間は普段、自分のことを一つの存在、「1」として捉えています。でも瞑想状態で血の巡りや心臓の鼓動、呼吸などの活動を感じるうち、自分とはたくさんのものが集まってできていること、集合体としての「多」の概念が見えてきます。それをさらに外へ開いていくと、鳥の声や風の音など、限りない「多」が存在していることに気付かされる。世界はいわば「多×多」であり、掛け合わせによって無数になる。
つまり、あらゆるものがつながり合い、「多」を超えたところに「無」があり、それが自分という「1」へ戻るという「1→多→無→1」の循環が広がる。これが瞑想世界で「oneness」と呼ばれる世界です。
禅の思想でひも解く、
“境界なき世界”の可能性
「無」とはなにか
この「DESIGN VISION」のリサーチでは、人間中心の世界観から脱却し、動植物など生物種を超えた視点から人間像を捉え直す「マルチスピーシーズ」*2という概念を探求しています。今のお話をうかがって、マルチスピーシーズもまた、「多」を超えた「無」なのではないかと気付かされました。
日本では一般的に「無」というと、"何もないこと"のように受け止められてしまっています。しかし本当は"何もない"のではなく、"境界がない"という理解が正しいと思います。だからこそ、その思想と向き合っていくことで可能性が満ちあふれてくるのです。
瞑想の順序としても、まず音と香りから集中して拾っていき、次に体の細かい感覚を拾い、さらに外と内側の境界線を弱めていく流れですね。
瞑想中は、脳の活動はどのようになっているのでしょう?
私自身、瞑想中の脳波を測ってみたところ、脳波は大きく下がっているのに、遠くでかすかに鳥が鳴いている声が聞こえたりするなど、感覚は冴えわたっている状態でした。すべてを遮断してブラックアウトするイメージとは、まったく異なる状態といえます。
では、何のためにそれを行うのか。一つの側面として、心を整える技術と習慣こそが禅である、という言い方もできます。だからこそ、お茶を飲むことによっても瞑想が成り立つわけですね。
「ヴァーチャル両足院」
に関しては、
リアルとバーチャル双方の
両足院の相互作用を
念頭に置き、
マルチバースの概念で
運営しています。
「ヴァーチャル両足院」に関しては、
リアルとバーチャル双方の
両足院の相互作用を念頭に置き、
マルチバースの概念で
運営しています。
「ヴァーチャル両足院」に関しては、
リアルとバーチャル双方
の両足院の相互作用を念頭に置き、
マルチバースの概念で運営しています。
「ヴァーチャル両足院」に関しては、
リアルとバーチャル双方
の両足院の相互作用を念頭に置き、
マルチバースの概念で運営しています。
「ヴァーチャル両足院」に関しては、
リアルとバーチャル双方の
両足院の相互作用を念頭に置き、
マルチバースの概念で
運営しています。
「ヴァーチャル両足院」に関しては、
リアルとバーチャル双方の両足院の相互作用を念頭に置き、
マルチバースの概念で運営しています。
「ヴァーチャル両足院」に関しては、
リアルとバーチャル双方の両足院の相互作用を念頭に置き、
マルチバースの概念で運営しています。
デジタル世界へ広がる活動
テクノロジーを使って禅や瞑想を広める試みにも積極的に取り組んでいますが、始められたきっかけについて教えてください。
2018年頃に遡りますが、お寺も今後は個の時代、僧侶一人ひとりの思想や人柄を発信することが重要な時代になると考えました。ただその時点では、画面を見て心をつなぐことの技術的な難しさを含めて、オンラインの活動には抵抗感がありました。
そうするうちにコロナ禍になり、やむにやまれぬ状況下で、オンラインの坐禅会を立ち上げたのです。さらに、物事を違う角度から見ることで可能性を開く禅問答の手法をオンラインで展開すれば、思考が広がる場になると考えました。いろいろ試していくなかで、お寺のようなリアルな場では自然とのつながりを体感し、オンラインでは思考のつながりによって頭のストレッチをするというように、使い方をはっきりと分けるようになりました。
一方で「ヴァーチャル両足院」に関しては、リアルとバーチャル双方の両足院の相互作用を念頭に置き、マルチバースの概念で運営しています。リアルでは坐禅会と法要は同時にできませんが、マルチバースであれば多元的な活動ができる。特にアートに関しては、襖絵が何枚あってもいいし、襖から滝や鯉(こい)が飛び出してもいい。「両足院マルチバース展」を開催してみて、大きな可能性を感じているところです。
両足院マルチバース展
是是プロジェクトの一環として、本展覧会を開催された。是是プロジェクト内で展開している、テクノロジーを活用した体験から新しい視点を獲得する試みである「忘是」プロジェクトを中心とした展覧会。
ソニーには「クリエイティビティとテクノロジーの力で、 世界を感動で満たす。」というSony's Purpose(存在意義)があります。この言葉やソニーの取り組みについて、アドバイスをお願い致します。
素晴らしいパーパスだと思います。人に、モノに、人生に、世界に対して可能性を信じ続けることで感動と出合う、それが禅の姿勢です。逆にその妨げになるのは、何かを知っている気になること。例えば、太陽は毎日沈んでいくのに、風光明媚な土地でなければ夕日に感動できないと思い込んでいる。少し手を止めて、そこにある現象につながったなら、感動はそこにあるはずです。
用事を早くこなすことばかり考えていると、身近な感動は見えなくなってしまいます。毎日小さな喜びを発見し続けられるように、アンテナを立てておく。そして毎晩、寝る前にはその日に出合った美しさや優しさを振り返ってみる。いわばルーティンです。例えば茶道は、一つひとつの細かいルーティンに集中することによって、いつもと違う出来事に感動したり、新たな発見が生まれたりする。
日々のルーティンとしての心がけがあるからこそ、決まり事にとらわれることなく問いや気付きが生まれ、それがクリエイティビティにつながっていくのだと思います。
(2022年6月22日 両足院にて実施)
取材者コメントソニーグループ クリエイティブセンター デザインリサーチャー 大谷祥子
2022年のリサーチでは実際に京都へ赴き、禅僧でありながらテクノロジーを使ったアプローチで活動を行う伊藤東凌さんにインタビューをさせていただきました。インタビューで一番印象的だったのは、「無」への考え方です。伊藤さんが教えてくれた「無」の概念は、マルチスピーシーズの概念にも通じるものでした。自分の内面を超えた世界には、無数の生き物やモノや自然が存在しています。自分以外の世界を感じることで、自分の立ち位置を改めて客観視することができるのです。
現代の人々は、不安定な世界で生きるために自らの心を守る方法を求めています。どのような状況でも、人々の心を癒すことができるようなテクノロジーの在り方を引き続きリサーチしていきたいと思いました。