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「職&仕事」
藤井太洋

 区民対応レポートの仕上がりを確かめた僕が[完了]ボタンを押すと、渋谷区役所の待合ロビーにアナウンスが流れた。
「番号札12番でお待ちの方は、7番窓口までお越しください」
 僕は首を伸ばして、アナウンスが繰り返されるロビーを見渡した。下顎骨を震わせる骨伝導(ボン)フォノではなく、物理的なスピーカーからアナウンスを流しているのなら、12番の番号札を持つ来庁者は拡張現実プラットフォームのXRE(サール)を使っていないということになる。
 アナウンスに反応したのは、壁際のベンチに腰掛けていた男性だった。歳のころは八十代に差し掛かるあたりだろうか。両膝それぞれに手のひらを当てて屈んだ男性はゆっくり伸ばして立ち上がろうとしていた。
 ちょうどその時、ベンチの向こうからオフィスサポーターロボットの〈アンクル〉がやってきた。乳白色のフェイスプレートに何も描かれていない[自律動作]モードで動いていることを確かめた僕は、スリープしていた僕の支流意識(ブランチ)をその〈アンクル〉に載せた。
 人の意識を受け入れた〈アンクル〉はフェイスプレートを輝かせて、男性の脇に回り込む。のっぺりとした顔には簡単な目鼻立ちだけが盛り上がっていた。どうやら僕の支流意識(ブランチ)は、無個性な外見と声を持つ[汎用(ユニバーサル)サポーター]を選んだらしい。
 僕ならこの場合、個性を持った[自立(インディ)ヘルパー]で動かすだろう。[汎用サポーター]で稼げる賃金は[自立ヘルパー]のおよそ四分の一にしかならないし、合成音声を嫌う人の方が多いからだ。
 支流意識(ブランチ)とのズレが大きくなってきたのかもしれないな、と思った僕は立ち上がった男性の手に、かつてスマートフォンと呼ばれていたタッチスクリーン式携帯電話を発見して胸を撫で下ろす。
 なるほど、それなら僕も[汎用サポーター]で相手するだろう。
 四十数年前に登場したスマートフォンを彼がどう受け入れたのかはわからないけれど、2050年の今になっても使い続けているのなら、少なくとも技術に対して保守的な考え方を持っているのは確かだろう。脳・マシンインターフェイス(BMI)で吸い上げた意識をいくつにも分岐させて、XRE(サール)の複合現実アバターや物理的な体を持つ〈アンクル〉を操らせるようなテクノロジーを嫌がる可能性は十分にあるが、[汎用サポーター]の話す合成音声は、そんなアレルギーを和らげてくれる効果がある──というのは個人的な考え方だけど、支流意識(ブランチ)も僕と同じ判断に至ったというわけだ。
 僕は席を立って男性を出迎えた。
「どうぞこちらにお掛けください。ご担当させていただくのは私、平良(たいら)と申します。今日はどのようなご用件ですか?」
〈アンクル〉が引いた椅子に、おっかなびっくり腰掛けた男性は僕の顔をじっと見つめてからボソリと言った。
「……年金の切り替えに」
 男性は、ロビーで書いた書類をデスクに置いた。
「国民基礎収入(ユニバーサルベーシックインカム)への切り替えですね。鈴木(すずき)様、承りました」
 念のために僕は、XRE(サール)の複合現実コンソールで転換書類を表示させて、書類に鈴木と書いてきた男性の前に差し出してみたが、男性はピクリとも反応しなかった。アナウンスに反応しなかったので骨伝導(ボン)フォノを埋め込んでいないのはわかっていたが、複合現実を網膜にレーザー投影するXRE(サール)レンズもつけていないということだ。
 2050年、XRE(サール)は今や生活を送るための必需品になっているし、僕も、渋谷区役所で働き始めた五年前には窓口にやってきた区民たちにXRE(サール)をお勧めしていた。
 実際のところ、そう難しくはない。眼球に貼り付けるXRE(サール)レンズは視力矯正用のコンタクトレンズと見かけも装着感も変わらないし、皮下の骨伝導(ボン)フォノも注射一本で埋め込める。コンタクトレンズが苦手なら携帯電話やXRE(サール)メガネでもいいし、皮下埋め込みのマイクに抵抗があるなら、マイク付きのフォノでアナウンスを聞けばいい。
 けれど、今なら人それぞれに事情があることもわかっているし、区役所にだって用意はある。
「では、切り替えの手続きに入ります。鈴木様に書類を作成していただく必要があるのですが、いかがいたしましょう。紙の書類と、ノート型パソコン、スマートフォン、タブレット型コンピューター、音声エージェントのいずれか、お好みの方法で書類を作っていただけます。あ、もちろんXRE(サール)も使えます」
 何を考えているかわからなかった鈴木の顔に、表情が戻った。
「区役所には、紙の書類なんてのもあるんですか」
「ええ、必要な方はいらっしゃいます。どうぞお選びください」
 僕が、デバイスの入ったケースを取り出してデスクに載せると、男性は銀色のタブレット型コンピューターに手を伸ばした。
「まさか最新版?」
「ええ、公的機関用に作ってもらっているものです。使い方は──」
「こいつなら大丈夫だよ」
 ボディの脇からペンを取り出した鈴木は、僕の知らないショートカットとジェスチャーを駆使して、手際よく書類を埋めていった。十五分ほどで切り替えの手続きを終わらせた鈴木は、署名欄に手慣れた様子でサインを書き込んでから、長いため息をついて顔を上げた。
「おめでとうございます。鈴木様の基礎収入制度への加入を確認しました」
「どうしてだか聞かないんですか? 厚生年金をやめてベーシックインカムにするなんて」
 僕は笑顔で答えた。
「それぞれ理由がございますよね」
 タブレットの画面に視線を落とした鈴木は、表示されている担当者の名前を見てから顔を上げた。
「平良さん」
「なんでしょう」
「ボランティアとか、何かありませんか?」
 僕はXRE(サール)のコンソールから区役所で仲介しているボランティア募集のページを開き、チラシを何枚か印刷して鈴木に渡した。
「今、募集が出ているのはこちらです」
「へえ、いろいろあるんですね」
 身を乗り出してきた鈴木に僕はチラシを渡す。その時の真剣な眼差しで、彼が国民基礎収入に切り替えた理由がわかった。彼は人生の残り時間で「仕事」を楽しもうと考えているらしい。年金などの基軸通貨収入があると、裁定通貨でやり取りされる基礎収入に大きな税金がかかってしまうのだ。
「これはどんなお仕事でしょうか。明日ですけど」
 鈴木が指さした募集に、僕は思わず噴き出しそうになった。

  オークションステージの設置 残り2枠‼︎
  日時:2050年6月22日(水曜日)16:45〜19:00
  場所と仕事の内容:ホテルニュー・アカサカにて、絵画オークションの設営を行います。
  XRE(サール)アバターによるVR設営、または〈アンクル〉による物理作業を手伝ってくださる方。 
  ぜひともご連絡ください。
  応募資格と人数、給与:自然人、支流意識(ブランチ)を問わず十名募集します。
  基礎収入基準の1.1倍を支払います。定員に達したところで募集は終了します。
  募集者:タイラー&ナッツ

 僕が出した「仕事」の広告だったのだ。まだ募集中だとは思わなかった。
「鈴木さん──」
 あなたには無理だ、と伝えるべきだ。舞台の経験がない自然人には力仕事しか頼めない。〈アンクル〉に僕の技術を被せれば、素人でも、素人の支流意識(ブランチ)でも一人前の仕事ができるとはいえ、XRE(サール)の使えない鈴木に務まる仕事ではない。どう伝えようか迷っていると、鈴木は首を傾げた。
「なんでしょうか」
「面白いと思います。でも、この仕事はXRE(サール)のアバターを使い慣れていないと引き受けられませんよ」
 そうかあ、と言って頭をかいた鈴木はチラシの束を持って待合ロビーに戻っていった。

 十七時、区役所が閉まるのと同時に僕はデスクを離れて、自宅のある道玄坂に建つ地上70階の複合ビルまで歩いた。部屋は低層階にあるけれど、谷の底に広がる渋谷地上駅の構造物を見下ろすことはできる。住民は、僕のように都内に職場を持つエッセンシャルワーカーがほとんどだ。
 フードコートで食事を済ませ、ショッピングモールを通り抜けた僕は、住民用のエレベーターで十二階まであがり、倉庫から明日の仕事に使う荷物を出して十四階の自宅にたどり着いた。
「ただいま」
 ドアを開けるとパートナーのナツが振り返った。
「お帰りなさい」
 僕は荷物を玄関に置いて玄関の洗面台で手を洗い、脱いだジャケットを寝室のハンガーにかけた。
「明日の準備、どこまで進んだ?」
「現場に行くだけ」
 ナツが指さしたリビングルームには、オークション会場の模型が置いてあった。もちろんXRE(サール)の複合現実だ。暗い赤を基調にした壁紙に鈍く輝く金色の柱がアクセントを添えている豪奢な大広間は、僕たちが設置する黒い壁で仕切られていて、ステージと客席、商談用の小部屋が用意されている。
「ありがとう!」と言った僕が、スポットライトで照らされているステージに近づこうとすると、ナツが警告の声を上げた。
「そこ、壁があるから!」
「大丈夫、わかってるよ」
 僕は空間に手を伸ばして、住宅の壁に触れ、リビングルームの広さを確かめた。
 ホテルの二つの大広間をつないだ巨大な空間の幅は30メートルで、奥行き70メートル、天井高さ12メートルにもなる。模型の縮尺を二十分の一にしてもリビングルームには入らない。
 僕は視線を下げて、二つの広間の境目に設置するウェイティングバーを確かめた。部屋の境目にある柱にボトルピラミッドが積み上げられていて、半円を描く黒檀のカウンターのどこからでも、好きな飲み物を頼むことができる。
 カウンターの上に吊ってある浮き梁には、今回のオークションのタイトルとキャッチコピーが輝いていた。どちらもナツがコピーを書いて僕がデザインしたものだ。
〝二十一世紀を描く勇気〟
 ロゴとカウンターは、ホテルの中にしっくりと収まっている──もっとも、作るのは明日なのだが。
「このサインはまだ3Dモデル? それとも現物?」
「現物。ホテルのスタッフにXRE(サール)レンズで撮影してもらった」
「え? 何? もう着いてるの?」
「今日の十四時ごろにアラタさんが持ち込んで置いていったんだって。連絡なかった?」
「なかったなあ」
「確か、残金はキャッシュオンデリバリー(COD)(商品の到着と引き換えに支払う手法)だったよね、もう払ってある?」
「だから、連絡なかったんだってば」
「あいたた……」
 僕はまだ美術大学に通っている、年若い友人の顔を思い返した。
 それまで曖昧だった職と仕事が、生きるために必要な職(ジョブ)と人生のための仕事(ワーク)に変わった〝大転換(グレートリプレイスメント)〟の前の時代を全く知らない世代は、自分の受け取る支払いをぞんざいに扱うことが多い。
 とはいえ僕も、以前のビジネスに明るいわけじゃない。
 グレートリプレイスメント、という単語を初めて聞いたのは、高校を卒業する2035年のことだった。
 その何年か前に、自動車、船、飛行機などの輸送業が自動運転にとって代わられていた諸外国で、輸送業とそれに関連した業種に携わる人々へ、収入を保障するベーシックインカムが導入され始めていたのだ。
 僕が大学を出た年に、日本でも基礎収入制度が始まった。初めは運転手向けだった制度はすぐに倉庫従業員にも適用されるようになり、運転手を相手にしていたサービス業、駐車場の管理者などへと広がっていった。
 こうやって始まった基礎収入制度が全国民に広がると、アメリカや中国と比べると安めの月額十六万円ほどだったにもかかわらず、続く三年間で日本の社会に劇的な変化をもたらした。
 農業や林業、養殖、介護、保育、清掃、軍事、食肉、葬儀などのような、社会に必要でありながら最低限の収入しか得られなかった職業のなり手が激減してしまったのだ。生きていくのに必要な資金を国が出してくれるのなら、給与が安いくせにキツかったり、身の危険があったりする職業に就く意味はない。
 国や自治体、事業主は少ない人手でも仕事が回るように自動機械に投資して、同時に優秀な人材を求めて給与も上げていった。エッセンシャルワークの人手不足が解消した時、社会を動かす人たちの給与はかつての上場企業の社員に並ぶほどまで上がり、社会的な地位も大きく向上していた。
 変化は、ホワイトカラーとサービス業にも及んだ。少人数でエッセンシャルワークを回せるようになった自動化プロセスは、デスクワークをあっという間に奪っていった。自然人の行動を模倣できる支流意識(ブランチ)が〈アンクル〉などの機械で物理空間の仕事をこなせるようになると、人から機械への転換は加速した。
 これがグレートリプレイスメントだ。
 大学を卒業してデザイン会社に入り、ナツと一緒にデザイン事務所を立ち上げた僕は、わずかに三年間だけ転換前のビジネスに従事していたにすぎない。その時すでに有名だったデザイナーたちが、既得権益を守るために大量に立ち上げた支流意識(ブランチ)にコンペで負け続けた僕は、デザイン事務所をたたんだ。
 知り合いのデザイナーから時々紹介される「仕事」を熱心にこなしながら、渋谷区役所の窓口担当という「職」も得た、というわけだ。ネオンを作ってくれたアラタのように「仕事」だけで食べていくのもいいけれど、「職」が与えてくれる安心感はなかなかいいものだ。
「わかった、連絡とっておくよ」
 僕が支流意識(ブランチ)を立ち上げると、「よっ」と声がして僕が部屋に入ってきた。もちろんXRE(サール)のアバターだ。
「アラタさんに連絡して、ネオンの代金を支払っておいて。完全代理人権限を十五分渡しておくから。君の取り分は2パーセント」
「わかった」
 僕は、手を振って姿を消した。2パーセントは多すぎたかもしれないな、と首を傾げると、その考えを読んだかのようにナツが頬を膨らませた。
「いいなー。あいつ、何に使ってるの?」
 僕はナツに笑いかけた。
「聞いてないな。支流意識(ブランチ)にだってプライバシーはあるからな」
「ないよ?」とナツ。「支流意識(ブランチ)は支流意識(ブランチ)だよ。稼いだ分は持ち主のものでしょ」
 僕は首を横に振った。
「ある、と思って付き合う方が楽だよ」
「あいつ何歳だっけ?」
「分岐してから、という意味なら三年目かな」
「ふむ」とナツは顎に指を当てた。「長すぎない?」
 支流意識(ブランチ)の標準的な稼働期間は一年ほど、といわれている。自律した行動ができて、学習もできる「意識」をそれ以上使っていると、本人との意識の差が大きくなってしまうかららしい。欲望に属するものは育たないように調整されているというが、自分を本人だと思い込む支流意識(ブランチ)の話はたまに聞く。
 僕は支流意識(ブランチ)がやって見せたように、手を振ってみせた。
「どう? 違いはわかる?」

 僕はそれからナツと模型を挟んで明日の打ち合わせを続けた。応募してきた十人の経歴を確かめて、貸し出してくれた支流意識(ブランチ)でチームアップをシミュレーションしてみたりする。
 明日、僕たちが設営のために使えるのはわずか一時間半しかない。その短い時間で資材を運び込み、ステージと客席を作り上げ、ホテル側で組み立ててあったカウンターを飾りつけて、掃除まで終わらせなければならない。
 いくつかのパターンを試してみて、現場でのマネージメントはナツに任せ、僕は足りないところに動いて手を動かす方がいいことがわかった。
 満足いくまで段取りを確かめた僕はXRE(サール)レンズを外し、シャワーを浴びた。明日の段取りをもう一度考えながらバスローブに体についた水気を吸わせていると、誰もいないダイニングテーブルからナツの声がした。
「平良くん、今から寝るところ?」
 僕はキッチンのカウンターに置いてあるXRE(サール)メガネをかけてダイニングテーブルに顔を向ける。
「ナツ、本人?」
「……本物のナツさんだよ。三週間ぶりだっけ?」
 わずかに遅れた彼女の反応で、僕は彼女が日本にいないことを知った。
「今、どのあたり? 待って、当てさせて」
 僕はダイニングテーブルに手をついて、触れそうなほど近くからナツの瞳を覗き込む。XRE(サール)のアバターは登場した場所の明かりに照らされるけれど、たった一つだけ現地の光を伝えてくれる場所が、カメラを外周に埋め込んだXRE(サール)レンズの中央に浮かぶ屈折像だ。
 僕はナツの瞳を見つめたまま、顔をかすめるようにして見る位置を変えていく。
「川が見える」
「わかる?」
「橋の上? 日が沈もうとしてる。右岸側が高いね。何かあるな」
「そっちを向こうか」
 ナツが顔を右に向ける。決して感触を伝えてくれない彼女の唇が、僕のと重なって通り過ぎていく。
「ありがとう。見えたよ。丘の上にあるのは教会かな?」
「正解。ここはリヨン」
 ささやいたナツは顔を離してテーブルに肘をついた。現実の彼女は、橋の欄干に肘をついているのだろう。ナツは太陽が輝いた方向に顔を向けて目を細めた。
「これから旧市街のレストランに、バーチャルツアーのお客さんを連れていくところ」
「つまり、ひとり寂しくワインを飲むわけか」
 僕が苦笑するとナツは笑った。
「XRE(サール)使ってると、ひとりって感じはしないけどね」
 ツアーコンダクターを人生の「仕事」に選んだ彼女は、欧州を中心に旅行者を案内して回っている。相手は自然人のこともあれば、XRE(サール)アバターで歩き回るバーチャルツアーのこともある。一度だけ気まぐれにツアーを申し込んできた支流意識(ブランチ)を案内したこともあるらしい。
 今夜向かうバーチャルツアーで、彼女は五人なら五人分のテーブルチャージを支払ってテーブルを空けさせ、自分だけ料理を楽しみ、ワインをあける。ツアー客たちは、レストランの雰囲気をたっぷりと味わいながら、ナツが注文して届けさせた料理に舌鼓を打つのだという。
 僕には何が楽しいのかわからないが、バーチャルツアーはリピーター客も多いらしいしナツの仕事も繁盛しているとのことだ。
 首を巡らせたナツはリビングルームの窓から見える渋谷の街を眺めた。
「もう夜か。こっちはこれから日が傾くところだよ。あんまり遅い時間じゃないよね」
「二十二時。明日は君の支流意識(ブランチ)と一緒に、オークションの仕込みだ」
「タイラー&ナッツ、調子はどう? 彼女、結構稼いでるじゃん」
「調子はいいね。いいコンビだ。ちなみに、財布の中身は聞いてないな。そんなに稼いでるの?」
 ナツは目を丸くした。
「なんで? 確かめなよ」
「彼女にも、プライバシーはあるからね」
「ないよ! 私の支流意識(ブランチ)の稼ぎはあなたが使っていいよ。権限(グラント)渡したよね?」
 僕は首を横に振った。
「彼女は彼女だ。君でもないし、僕の持ち物でもない。彼女には彼女の生活がある」
「何言ってるの。あなたがいない間も確かに働いてるかもしれないけど──でも」
「だからさ」
「何が?」
「僕がいない間にも、彼女は行動して変わっていく。経験を積んでどんどん仕事が上手くなってくし、僕を驚かせてくれる。明日は、現場のマネージャーをやってもらうつもりなんだ」
「……確かに支流意識(ブランチ)は優秀だけどさ」
「優秀さとは関係ないな。彼女には彼女の生活がある」
「ないよ?」
 僕は噴き出した。
「どうしたの」
「さっき同じことを彼女が言ったんだ。ないよ、って。言い方がそっくりで思わず笑っちゃった」
 ナツが頬を膨らませる。その表情は支流意識(ブランチ)のナツととてもよく似ていたけれど、やっぱり同じものじゃなかった。
「ナツが支流意識(ブランチ)を作って何年になる?」
「三年。日本を出る時に、あなたに押し付けてったじゃない」
「何考えてるんだ、と思ったよ」
「え?」
 僕はナツの正面に回り込んで、腕を広げた。ナツが頷くのを確かめて、僕は触れることのできない体に腕を回す。
「そろそろ会いに行ってもいいかな」
「遊びにくる?」
 僕は答えずに、ナツの額にくちづけをして体を離した。
「明日早いから、そろそろ寝るよ」

 帯電した空気の匂いが充満する大広間は、熱気に包まれていた。
 人間とほぼ同じ出力を出すことのできる〈アンクル〉が放つ熱は馬鹿にならない。パワージェネレーターが密集している脇の下あたりは、40℃近くになることもあるほどだ。僕の背中にも、汗がべったりと染み付いたシャツが張り付いていた。
 そんな大広間に、ナツの声が響いた。
「設営時間の終了まであと十五分です! 美術班も待機してます。最後のパネル、行けますか?」
「大丈夫!」と僕は、汗一つかいていないナツのXRE(サール)アバターに手を振った。
 床に並べたパネルをつなぐクランプを全て確かめた僕は、ずらりと並ぶ〈アンクル〉たちに声をかける。
「最後のパネルだ!」
「はい!」「あい!」「おう!」
 思い思いの口調で答えた〈アンクル〉たちの顔もまた、個性にあふれていた。つい三十分前までホテルの倉庫に並んでいた時は全く見分けがつかなかったのに、[自律モード]で起動した〈アンクル〉たちは、身長まで違って感じられる。僕は胸をそびやかしている大柄な──そう見える──〈アンクル〉と、その横でポケットに手を入れている──ように見える──〈アンクル〉を手招きする。
「二人は足元について」
 表を下にして置いたパネルの装飾を壊さないように裏に張り渡した枠の上を慎重に歩いてきた〈アンクル〉二人は、僕が指示したパネルの継ぎ目まで来ると床に降りて、パネルの下端を足で押さえた。
「上げるぞー!」
 パネルの上端側で待っていた〈アンクル〉たちが慎重な手つきでパネルを持ち上げていく。滑り出しそうなパネルを足で押さえた〈アンクル〉二人は、手に届くところまで近づいていたつなぎ目を掴んで、手前に引き寄せた。僕がインストールしておいたスキルのおかげで息はぴったり合っているが、それでも力の加わり具合にはばらつきがあるようだった。僕は傾いた中央のパネルに駆けつけて、パネルが真っ直ぐに立ち上がるように力を込める。
 僕は脚立の上に座っている〈アンクル〉に声をかけた。
「ワイヤーの準備は?」
「いつでもどうぞ」
 脚立の上の〈アンクル〉は、天井からぶら下がっているワイヤーと、その先端のクランプを見せてくれた。
「パネルを滑らせるからホックして」
「了解」
 背後から〈アンクル〉が声をかけてきた。
「タイラーさん、パネル行けます」
 僕は三歩下がって、全体を見渡した。パネルに取り付いた〈アンクル〉は六名。安全に動かすのに十分な数だ。床を傷つけないためのスリップも履いている。天吊りをやるスタッフが立つ脚立にも、補助がついている。
「じゃあ、合図で足のところまで滑らせて」
 僕はパネルを設置する位置に回り込んで、足元を指さした。
「せえの!」
「うい!」「おう!」
 先ほどよりも揃った声に続いて、パネルが動いてくる。僕は足元まで滑ってきたパネルを手で受け止めて、脚立の上に立つ〈アンクル〉に声をかけた。
「固定!」
「はい!」
 かちゃり、という音でパネルがふっと軽くなる。これが最後のパネルだ。僕はXRE(サール)に原寸大の模型を立ち上げてから、広間の反対側まで下がって、実際に置いたパネルとの位置の差を確かめる。XRE(サール)には「誤差二センチメートル」と表示されていた。
「設営終了! 資材をコンテナに入れて撤収!」
 歓声を上げた〈アンクル〉たちは弾かれたように会場に散っていって、ゴミと、残された資材を集めてくる。パネルの隙間やステージの下などは、ドローンに撮影させた3D空間をナツが歩き回ってゴミの場所を探し当ててくる。
 片付いていく会場を見ていると、背後から声をかけられた。
「これを最後の仕事にするんだって?」
「まあね」
 僕が声の主に答えると、彼はため息をついた。
「本気かよ? 支流意識(ブランチ)だけで暮らすなんて」
「やってみなきゃわかんないだろ。無理なら投げ出しちゃっていい」
 振り返ると、はやっぱり苦笑いしていた。分岐したのは三年前だが、生身の僕と触れ合っているせいか、ナツと彼女の支流意識(ブランチ)ほどには印象が離れていない。
「稼ぎは足りそう?」
「おかげさまで」
 は頷いた。
「渋谷区が雇ってくれるって」
「すごいな。自分で交渉したのか」
 僕はの肩に拳を触れさせた。
「じゃあ、また。時々は帰ってくるよ」
「そうしてください」
 は、会場のあちらこちらに出現するナツを目で追った。
「彼女も嬉しがってくれると思います。ところで、リヨンに直接行くんですか?」
 僕は肩をすくめた。
「ナツが迷惑じゃなければね」
「待ってる、って言ってましたよ」
 僕は目を見開いた。
「お前──」
「僕から連絡したわけじゃないですよ。ナツさんが部屋に出てきた時に、たまたま僕もいて、少し話したことがあるんです」
 ため息をついて、僕はを見直した。きっと二人はうまくやれるだろう。ないのは物理的な身体だけだ。収入は四分の一ほどに落ち込んでしまうはずだが、法的にもあの部屋を使っていいはずだ。
 混乱はすぐに収まってくれる。そして十分な時間が経てば、彼らは僕たちからも独立できる。
 僕はナツが姿を消すタイミングを見計らって、会場を後にした。