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「レジリエンス」
小野美由紀

「暮島(くれ・しま)サツキさん。あなたには厚生労働省のガイドラインに基づく『レジリエンス・プログラム』に参加していただきます」
 目の前にいる女性は、まるでヒーリング・ミュージックのようなウィスパー・ボイスでそう言った。
 オフィーリア──そう名乗る彼女は本物の人間そっくりのカウンセリングAIだ。さっき、僕の耳の後ろに貼り付けられた『エモーション・キャプチャリング・センサ』から通知が来て、自動的にプログラムが立ち上がり、目の前に現れた。
 髪型は硬質な黒髪ストレートで、前下がり気味のボブ。青みがかった肌に、大きくも小さくもないアーモンド型の目と、すっきりとした鼻筋が知性を感じさせる。ハイネックのタイトなセーターに、ひざ下丈の直線的なスカート。性的に魅力的な要素はないが、信頼のおけるタイプだ。彼女はまさに、僕の理想的なカウンセラーの姿をしていた。当たり前だった。国が作ったメンタルヘルス管理システム(僕らの間では自殺防止システム、と揶揄されていた)が、僕の成人してからの人格データやストレス反応、脳波、ホルモン量などの仔細なデータから、最適なカウンセラーのアバターを作り出しているのだ。
「昨日はよく眠れましたか?」
 オフィーリアは赤い北欧デザインのチェアに深く腰掛け、リラックスした様子で対面に座る僕を見ている。もちろん、VR空間の中でだ。実際に僕が腰掛けているのは一人暮らしのマンションの固い仕事用チェアだが、ふかふかのソファの座り心地まで尻に感じられた。二人を取り囲んでいるのは、僕が幼い頃、夏休みのたびに遊びに行った祖父母の家の裏山の景色だ。川のせせらぎが聞こえ、木漏れ日がゆったりと僕たちの身体の上に輪を描く。僕が、最もリラックスしてカウンセリングに臨める環境を再現したものだろう。とはいえ、相次ぐ震災と地形変動により、この風景はすでに現実には存在しない。祖父母が昔住んでいた家もとうになく、大人になってからは、彼らとは仮想現実の中でしか会うこともなくなったんだけど。

「……そんなの、分かってるでしょ」
寝不足で朦朧とした頭から、僕はかろうじて言葉を絞り出した。
「おちおち眠ってられる状況じゃないんですよ」
「そうでしょうね」
 センサがかすかに温かみを帯び、骨伝導で彼女の声を直接伝えている。
「私たちは、ここ1ヶ月のあなたのホルモン分泌量の異常、血圧の上昇、心拍数の増加、血糖値の乱高下、脳波の乱れから、あなたのメンタルヘルスが著しく悪化していると判断しました。このままの生活を続けていれば、あなたがうつ病を発症する確率は80%。自殺する可能性は20%です」

 自殺なんかするかよ。くそったれが。
 彼女が長々と説明するのを僕は内心毒づきながら聞いていた。

 エモーション・キャプチャリング・センサは人間の感情を可視化するデバイスだが、その中には個人が受けているストレスレベルを測定するストレス・コントロール機能もあり、一定を超えた人間には通知が来て、孤独担当大臣主導で作成された『レジリエンス・プログラム』を受けるよう指導される(長く続く大不況のせいもあり、日本のうつ病患者数はイギリスやオーストラリアを抜くほど増加していた)。厚生労働省はセンサの着用をあくまで「推奨」と言い張るが、実際には入社時に人事部から着用するよう迫られるので、実質は義務付けられているようなものだった。
 レジリエンスとは、人間がトラウマになるような精神的負荷の強い出来事や、困難にぶつかった時、適応し、回復する力のことだ。離婚や近親者との死別、けがや病気、失業や左遷、その他多大なストレスを受ける体験をした時、人は心理的にダメージを受け、時には回復不能になる。このプログラムは個人のデータからAIが割り出した一人ひとりに最適な心理カウンセリング・セッションによって、ダメージからの自己回復を手助けするものだ。受講するか否かは信用スコアに影響し、犯罪者の社会復帰などにも利用される。導入が決定された2040年頃、万引きで逮捕された有名スポーツ選手がこのプログラムを受けて依存症を克服し、社会復帰したことが話題となり、広く普及した。プログラムを通して適切な心理的レジリエンシーを身につけることは、就職や進学、あるいはパートナー探しにおいても有利に働く場合があった。

「それだけではありません。現在の健康状態が継続すれば、将来の収入は15%減り、医療費が10%アップします。とりわけコルチゾール値は危機的なレベルにまで上昇しています。このままでは肝機能に障害が起こります。また……」

 そんなこと、今の僕にとってはどうでもよかった。未来のことになど、何の関心もなかった。僕が知りたいのは、ただ一つだけだ。

 なぜ、彼女は──僕の愛する恋人のアキラは、僕の前から突然姿を消したのだろう?

「サツキさん、あなたは現在、私との会話にストレスを感じていますね」
 オフィーリアは観察するような視線を僕に向けながら言った。
「ドーパミンとアドレナリンの値が急上昇し、オキシトシンが減少しています」
「ああ、してるよ」
 僕は答えた。
「君が言ってることに、興味はないんだ。僕はただ、彼女ともう一度話がしたい。それだけなんだよ」
 オフィーリアは顔色一つ変えずにこう返した。
「藤條(とう・じょう)アキラさんとの交際が終了した事について、あなたは著しく傷ついているのですね」

 藤條アキラは僕がひと月前まで交際していた女性だ。交際は順調で、もうすぐ1年が経とうとしていた。それなのに、突然メッセージで「別れよう」と告げられ、一切の連絡が取れなくなった。
 ひと月が経っても、一向に気持ちは収まる気配はなかった。なぜ、とどうすれば、が交互に来て、彼女との思い出が頭を埋め尽くす。タスク処理能力は限りなくゼロになり、仕事は全く手につかなかった。アルコール摂取レベルは警戒域に達していた。不眠に抑うつ的な気分。土気色の顔でミーティングに出席する僕を、同僚たちは心配するふりをしてヒソヒソと噂しあった。
 ふざけんなよ。お前らだって経験あるだろうが。……あれ、ひょっとして僕だけなのか? こんなに惨めで、やるせなくて、世界がドロドロと崩れ落ちてゆくような、ひどい気持ちを味わったことのあるやつは?
「彼女はあなたへの接触許可をレベル0に設定しています。あらゆる通信、SNS、VR空間で連絡を取る事は禁止されています。残念ながら、今の状態でアキラさんと話をする手段はありません」
「僕が何したって言うんだよ!」
 僕は叫んだ。AI相手に大人気ないなと思ったが、このオフィーリアはそうした社会的抑圧を吹き飛ばし、つい感情を露わにしたくなるような、そんな雰囲気をまとっていた。
「お辛い思いをされたんですね」オフィーリアは、途端に人間じみたいたわりを含んだ声で言った。
 AIなんかに同情されても、嬉しくなんかない。
 そう思ったのを読み取ったかのように、彼女はすぐに続けた。
「今のあなたは、AIである私に共感されても、きっと嬉しくないでしょう。……ですから、まず、ヒアリングをさせてください。アキラさんとあなたの出会いから現在までを、順序立てて話していただきます。あなたの話を元に、私は最適なレジリエンス・プログラムをご提案します」
「だから、僕にはカウンセリングなんか必要ないって言ってるだろ!」
 僕は再びがなった。
「僕はただ、なぜ彼女が僕の元から去ったのか知りたいだけだ。それを知って……あと、できれば彼女とやり直せる方法も知りたいんだ。それさえ分かれば、君の助けなんか借りなくたって僕の心の問題は全て解決するんだよ」
 オフィーリアは沈黙し、じっと僕を見た。僕は少し気圧された。顔かたちは全然違うし、AIであると分かりきっていたけれど、彼女の目は少しだけ、僕の本心を知ろうとして僕を見つめる時のアキラの目に似ているような気がした。

「それを知るためにも、まずは、ヒアリングをさせてください」
 
「僕たちは、エア・レースを通じて知り合いました」
 僕はアキラとの経緯をオフィーリアに一から説明した。オフィーリアはそんなことはすでに承知のはずだったが、彼女はじっと耳を傾けて聞いていた。ストーリーテリング──ショッキングな出来事を始まりから辿り、客観的な語りとして把握し直すことは、心理療法の中でもオーソドックスな手法であると彼女は説明した。
 エア・レースは簡易ジェットエンジンを背中に装着して飛行し、空中に浮かぶ障害物を避けながらゴールを目指すスポーツだ。度重なるパンデミックによりVR空間でのeスポーツがメジャーとなり、リアル・スポーツの機会が減った昨今では珍しく、若者を中心に人気があった。最初、僕は一人で黙々とタイムの更新に勤しむだけだったが、同じフィールドでアキラと度々顔を合わせるうちに会話を交わすようになり、交際に発展した。
 VR空間で恋愛をし、一生リアルで出会うことのない恋人関係も一般的になった中で、リアルで友人として出会い、恋愛に移行した僕たちはかなり特殊だった。結婚を考えている、と友人に打ち明けたら驚かれた。恋愛という不確定要素の多い関係から、同居パートナーに移行するなんてリスキーすぎる、と言われたが、僕は聞く耳を持たなかった。彼女への愛情の深さに関しては、誰にも負けない自信があった。そんな恋愛は古臭い、非効率的だと言ってくる人間を見下す気持ちすらあった。僕は偶然から最良のものを手に入れるだけの力があったのだ。
 友人も決して多くなく、仕事でもVRに入り浸っている僕にとって、エア・レースをすること、アキラとデートすること以外に楽しみなどなかった。アキラの肌は滑らかで気持ちが良く、どんなVH(ヴァーチャルヒューマン)とセックスするよりドーパミンとエンドルフィンを分泌させたし、二人で手を繋いで散歩するだけで、セロトニンが洪水のように溢れ出た。その幸福感は25年の人生で体験したことのないものだった。こんなにも、誰かを手放したくないと思ったことはこれまでなかった。
「僕は今まで、VR上での恋愛しか経験したことはありませんでした。AIによって選出された最適なパートナーとの恋愛だったけど、全部上手く行かなかった。だから逆に、自分で選んで始めた恋愛なら上手く行くと思ったんです。それに、実際そうでした。初めて出会った時、僕は彼女が運命の相手だと一目で分かりました」
「あなたの異性の好みや社会ステータスから選出された同世代の恋愛パートナー対象のうち、アキラさんのマッチ・レベルは23万5432人中6万9000位でした」
 オフィーリアはこの空間に充満した僕の興奮と熱気を、するりとどこかに逃すような、極めて無機質な声で言った。
「マッチ率は75%です。あなたは、他にもっと適した相手がいると知っていましたよね」
「もちろん知ってましたよ! でも、僕と彼女なら絶対に上手く行くと思ったんです」
「なぜですか」
「そんなの、決まっているじゃないですか!」
 僕はイライラして叫んだ。
「僕が、彼女を、愛していたからですよぉ!」
 オフィーリアの瞳孔が急に小さくなった。次の瞬間、彼女の体は分裂し、大小様々な青い半透明の球体になって空間じゅうを跳ね回った。バグだろうが、怖かった。キュイン、という小さな音が、骨伝導を通して耳に届く。きっと僕の発言を分析しているのだ。
「……あなたに必要なプログラムが分かりました」
 しばらくして、彼女は再び人間の形に戻ると言った。
「あなたに必要なのは、認知の歪み補正プログラムです」

               ✴︎

 目の前にはアキラがいる。アキラは僕に向かって微笑みかけている。自然光の、柔らかなグラデーションの中で、そよぐ風に綺麗な髪の毛をなびかせている。
 僕たちが付き合い始めて、3ヶ月頃のデートの光景だ。VR上にオフィーリアが作り出した再現映像だと知っていても、涙が出そうになる。あの頃僕たちは、何もかもが順調で、円満で、二人でいれば怖いものなど何もなかった。

「あなたのご要望は、なぜ彼女があなたの元を去ったのか知ることでしたね」
 オフィーリアに向かって感情を思い切り吐き出すセッションを終えた後で、彼女は僕に言った。正直、そのプログラムを受けたことで、幾分か陰鬱な気分は軽減していた。このひと月、僕はこの話を誰にもしていなかった。結婚すると騒いだ手前、恥ずかしくて誰にも言えやしなかった。AIが相手なら、どんなに汚い罵倒の言葉も、呪いにも似た激情も、他人には決して聞かせられないような卑しい欲望も吐き出せた。
「私はカウンセリングAIです。あなたの望むものをお与えできるか分かりません。それでも、あなたが本プログラムを通じて、それを自力で知ることはできるでしょう。私はあなたの要望を最大限叶えつつ、レジリエンスを身につけられるプログラムを組みました」
 何もしないよりはマシだ。彼女の組んだプログラムに、僕は乗ることにした。
「本プログラムは4つか5つのセッションによって構成されています。過去を再現し分析するリフレイン・セッション、やり直したい場面を演じるロールプレイング・セッション、会話したい相手との仮想の対話が行えるシミュレーション・セッション、回復を手助けしてくれるヘルプ・パートナーとのカンバセーション・セッション。他にはクリティカル・トラウマ・克服セッションなど……」
 僕の足元には、小型犬くらいのサイズの不思議な生き物がうずくまっている。E/A(エモーション・アニマル)──これはセンサが読み取った僕の感情を具現化したものだ。人によって、また、その人の現在のメンタルの状態によって形状は異なる。昔、祖父母が飼っていたミニ柴にも似ているし、子供の頃大好きだったゲーム『モンスタークラッシャー』に出てくるお供のモンスター、アイボウにも似ていた。背中は鋭利なトゲで覆われており、全身の色は血のような朱色の混ざる濁った灰色で、毛づやは悪く、目には光がなかった。
 名前をつけてください、とオフィーリアに言われ、僕は、祖父母がミニ柴を呼んでいたのと同じ、「ゆづる」と名付けた。僕が手を差し伸べても、ゆづるは全然反応しない。外部からの働きかけを全て拒絶するように、不安げな表情で固く身を丸めている。
「彼はあなたのパートナーです。あなたが回復すればするほど、彼の見た目も反応も変わってゆきますよ」 

 VR空間の中で、僕は僕自身とアキラがカフェでお茶している光景を眺めた。自分の過去を3D映像として眺めるのは、とても変な感じがした。僕が今体験しているのは「リフレイン・セッション」──過去の場面をありのままに再現することで、問題点を発見し、認識を更新するのだそうだ。

 アキラはちょうど、2度目の飲み物の注文を終えた所だった。ちょうどその時、僕たちの住むS市のCCC(チャイルド・ケア・センター)にあるCCD(チャイルド・ケア・ドック)が5000台を突破したことを告げるニュースが互いのデバイスに入ってきた。
「私の友達がCCCに勤めてるの」アキラがフローズンドリンクのストローから、その小さな唇を離して言った。
「そりゃもうすごい人気で、1000台の追加枠に4000件もの応募があったんだって」
 CCDは0歳から6歳までの幼児をAIとロボットによってオートで育て上げる育児システムのことだ。元は子育て適性が低いと診断された人々だけのものだったが、2040年にCCDでフルで6歳まで育った子供と、そうでない子を比較した結果、前者の方が能力が高く、成長度合いに個体差もなく、ストレスに強いと判明してからは、CCDは爆発的に普及した。
「まぁ、そりゃ人気が出るのは当然だろうけど」僕は何の気なしに言った。
「人の手で育ってない、完全CCDの子供なんて、大人になってからAI以外とコミュニケーションが取れるのかなぁ」
「データではほぼ問題なく育ってるって。むしろ知能レベルは高いくらいだってよ」
 彼女は言った。
「そりゃそうでしょ。子育てってすっごく大変じゃん。あんな危なっかしいこと、人間の手だけでやるなんてどうかしてるよ。みんながみんな子育てに向いてるわけじゃないしね」
 僕が覚えている通りの、極めてフラットな口調で彼女は言った。記憶の中の彼女の言動を、オフィーリアは忠実に再現していた。
「そもそも人間ってね、最も子育てに適さない生き物なんだよ。CCDができたことで、虐待死の件数はほぼゼロになったし、産後うつや育児うつも大幅に減った。すごくいいことじゃん」
「僕と君の子供が生まれたら、きっと可愛いだろうね」
 僕は話を逸らした。社会的なトピックについて彼女と議論するより、少しでも恋愛の甘い気分に浸っていたかった。
「んー」
 彼女はちょっとだけ唇を尖らせると、はっきり僕の顔を見据えて言った。
「私、子育てパートナーはもう約束してる人がいるんだよね」
 アキラが複数(パラレル)パートナーシップ家庭で育ったことは、付き合ってすぐに聞いていた。結婚率が底をついた2030年頃から、一人のパートナーと恋愛、結婚、子育てを行うのではなく、それぞれ分散し、パートナー契約を個人で交わす人が現れ始めた。アキラの両親はその第一世代で、アキラは女性同士のカップルの間に生まれ(この頃には、同性間のDNAを受け継いだ受精卵を作る技術は確立されていた)、彼女たちの関係者、つまり、双方の恋愛パートナーや結婚パートナーに囲まれて育った。今ではパラレルパートナーシップを選ぶ人は社会全体の50%にまで及んでいる。そんなアキラが、子育てと結婚、および恋愛を別に考えるのは自然なことかもしれなかった。
「高校の同級生の女の子でね、大親友なの。私たち、卒業前に子供は二人で作ろうねって決めたんだ」
 映像の中の僕は、口に運びかけたパスタのフォークを宙に浮かべたまま、顔面蒼白で震えている。その顔を見ているうち、この時の気分が、まるで現在の体験のように鮮明に胸の内に蘇ってきた。頭を殴られたようなショック。僕はこの時しばらく、口をきけなかったはずだ。
「……じゃあ、君は僕と、子供を作る気は、ないってこと?」
しどろもどろになりながら、僕は何とか言葉を絞り出した。
「うーん、可能性は、なくはないけどぉ」
 アキラは気が進まない様子で言った。
「今の所、あなたと結婚して子供を持つイメージはあんまりわかない。でも、一緒にいたいとは思ってるよ」
「もしかして、結婚も別の人とするつもりなの?」
「えっ、違うの?」アキラは目を見開いた。
「恋愛の相手と結婚なんかしたら、揉めるの必至じゃん」
 僕が育った家は、旧来的な男女の婚姻家庭だった。また父母の田舎はかなり保守的なエリアで、典型的モノガミーが当たり前だったし、出産も子育ても、人間の手で行うのが当たり前だった。僕自身も、きっとそうなるだろうと信じて疑わなかった。
「僕はアキラと、恋愛も結婚も、子育ても一緒にするつもりだったよ」僕は言った。
「パラレルパートナーシップなんて、互いへの愛情と責任が薄れるだけだよ」
「そんなことはないよ。私の家族はパラレルだったけど、みんなから均等に愛を注いでもらって育ったもん」アキラはかなり嫌そうな顔をした。
気まずい沈黙が、二人の間に流れた。
「……まあ、でも、考えてみるよ。ただ、CCDに入れられる子供は一度につき一人までだし、もし作るとしても、彼女との子供を育てたあとかな。体力的に人体出産は厳しそうだから、人工子宮で産むだろうし、小さい子を二人いっぺんに育てるのは大変だから、6歳までフルでCCDに入れると思う」
 そんなの嫌だ。
 喉ギリギリまで出かけた言葉を、僕は飲み込み、代わりにこう言った。
「……分かったよ」
 アキラは見た目に反して頑固なのだ。僕と一緒に過ごすうちに、考えを変えてもらうしかないだろう。大丈夫だ。僕は彼女を愛しているんだから、きっと彼女も分かってくれるはずだ。
「もし、君がパラレルパートナーシップを望むなら、僕は君に合わせる。君の自由にしなよ。子育ても、人工子宮を使ってもいいし、CCDも3歳までなら許すよ。でもその代わり、それ以降は僕たちの手で育てる。そっちの方が、きっと子供も愛情をしっかり感じて育つと思うんだよね」
 その時の彼女の目は、地獄の底のような色をしていた。もし、僕がその顔を見ていたなら、きっとすぐさま地面に伏し、彼女に謝ったに違いなかった。けれど映像の中の僕は、彼女の顔を見ていなかった。自分の発言への自信のなさから身を守るように、背を丸め、テーブルの上に視線を彷徨わせていた。
 映像はそこで消えた。
「あなたはこの時、自分の意志に反した発言をしましたね」オフィーリアが言った。
「なぜですか」
「……彼女に嫌われたくなかったからです」僕は言った。「彼女はきっと、僕の意見を分かってくれないと思った。だったらじわじわ相手を変えてくしかないと思ったんですよ。一緒にいて絆が強くなれば、きっと彼女も、どんな関係が僕たちにとって正解なのか、分かってくるって」
 オフィーリアはじっと僕を見つめていた。ただの3DCGだ。けど、まるで彼女自身の意志を持っていそうな面持ちをしていて、僕はなぜかいたたまれなくなった。
「だって、パートナーシップってそういうもんでしょ。相手のために何かを我慢する。僕は妥協した。彼女だって、一緒に居たいのなら僕のために何かを我慢してくれてもいいじゃないですか!」
 再び、彼女を責める気持ちが胸の中に広がり、僕を蝕み始めた。
 そうだ。本当は僕は彼女と付き合うのに、いくつも無理をしていた。本当は興味がなくても彼女の行きたい場所に合わせていたし、平日は自由でいたいという彼女の意思を尊重し、休日しか連絡しないように我慢した。彼女のことが好きだから、無理をして自分を押し殺し、相手に合わせていたんだ……。
 ふと、足元に触感を覚えて見下ろすと、ゆづるが僕の足にしがみついていた。クゥーン、と悲しそうな鳴き声をあげて眉根を寄せている。それを見た途端、少しだけ、体の内側で暴れているどす黒いものが凪いだ。
「今の映像を見て、どうお感じになりましたか」
「……良くない言い方をしたなって思います。自分のことで一生懸命で、彼女がイヤな顔をしていることにも気づいてなくて……もう少し、彼女のことをちゃんと見てあげていれば」
 ハッとした。
「もしかして、彼女は僕のそういうところを嫌いになったんでしょうか」
 思い当たる節は多々あった。この場面以外にも、日常の些細なシーンで同じようなことがあった気がする。バラバラに分散していた一つ一つの点が結びつく。頭の中に渦巻いていた、「なぜ」と「どうして」の霧が晴れてゆく。
「相手の本心は分かりません。レジリエンス・プログラムは正解を探すものではありませんから。……肝心なのは、今のあなたがこれをどうお感じになり、お受け止めになるかということです」

               ✴︎

 次のプログラムは「カンバセーション・セッション」だった。僕の交友関係の中から、オフィーリアが『ヘルパー』として選定した相手と、この問題について会話をする。他人のレジリエンスを促す『ヘルパー』に選ばれることは、大きな信用スコアを得るチャンスであり、名誉なことだった。
 僕は正直不安だった。というのは、僕にはほとんど友人がおらず、また居たとしても表面的な付き合いだけで、この問題について本心をさらけ出せるような相手はとても思い浮かばなかったからだ。それに──オフィーリアが選んだ相手が、『ヘルパー』を辞退したらどうしよう?
 しかし、彼女が名前を挙げたのは、意外な人物だった。
「この人に連絡を取ってください。すでに先方には概要を伝えてあります」
 それは、僕の中学時代の国語教師だった。平成からタイムスリップしてきたような古臭い気質の頑固なオヤジで、正直苦手だった。しかし彼の授業は意外にも面白く、文系科目の中では唯一熱心に聞いていた。それでも、彼と僕の間に他の接点などなく、授業以外で会話を交わしたこともなかったはずだ。
 なぜ、この人物が。

「おう、待ってたぞ」
 仮想現実世界のバーで、僕たちは待ち合わせした。彼は店に入ってきた僕を見て、手をあげて出迎えた。流石に最後に会った時から10年もの時が経ち、髪には白いものが混じっているが、厳しい雰囲気は変わらない。
 一体、中学の先生なんかと何を話せばいいんだろう。僕は困った。
「まさかお前のヘルパーに選ばれるなんて思わなかったよ」彼はウイスキーのグラスを傾けながら、ニヤリと笑った。彼の笑顔なんて一度も見たことがなかったから、変な感じがした。
「先生も、レジリエンス・プログラムを?」ヘルパーに選ばれるのは、過去にレジリエンス・プログラムを受けた事のある人間だけだ。
「ああ、あるよ。数年前に離婚した時だな。あんときは大変だったよ」先生はさらりと言った。「ちょうど退職したばっかりでなぁ。行くところもねぇし、人と会うことも急になくなって。まあ、打ちのめされたよ」先生は頭を掻いた。
「デジタル・アルコール中毒になっちまってさあ。日常生活が送れないくらいに、ここの酒場に入り浸りになって。このプログラムがなかったら、どこかでのたれ死んでたかもな。今でもソブラエティは保ってる。今飲んでるのも、フェイク・ウイスキーだ。酩酊はない」
 彼はカランと氷を響かせてグラスを傾けた。
「……先生も、大変な思いをされたんですね」僕はどうリアクションしていいか分からずにそう言った。中学の時はただの『先生』でしかなかった彼の中にも、折り重ねてきた人生の層があり、厚みがある、という、ごく当たり前のことに驚きながら。
「お前、失恋したのか」率直に彼は切り込んできた。この率直さも、昔のままだった。
「どんなことがあったんだ。話してみろ」
 恥ずかしさを覚えつつも、僕はできるだけありのままに経験したことを話した。彼は時折、相槌を打つだけで静かに僕の話を聞いていた。彼の朴訥とした雰囲気や、リアクションを過度に挟まないことが、却って話しやすかった。同世代の友人だったら、とてもこうはできなかった。
 語りながら僕は思った。
 こんな風に、彼女と付き合っているうちから、悩みを打ち明けられる相手がいればよかったな……。
 僕の話が一通り終わった後で、彼は言った。
「なるほど、で、お前は彼女がお前を振った理由を知りたくて、プログラムを受けてるってわけか」
「……そうです」
「まあ。そりゃ知りたいよな。……けどよ、分かるわけないだろうなあ」
 先生は姿勢を崩すと腕を組んだ。
「他人の本当の気持ちなんて、分かるわけないだろうよ……身近な相手であればこそ、な」
「じゃあ、僕はどうしたらいいんですか」
 僕は彼に詰め寄った。同じ別れの痛みを知る彼なら、適切なアドバイスをくれると思った。
「このまま、諦めろって言うんですか」
 先生は何かを頭の中で反芻するようにぼんやりとグラスを眺めていたが、そのうち口を開いた。
「お前、中学の時にさあ、放課後俺のとこに来て、こう言ったの覚えてるか?…… “この読解文で『主人公の気持ちを答えよ』って問いがありますけど、どうしてこの解答が正解だって分かるんですか? 気持ちに正解なんてあるんですか?” って。なんでそんなこと聞くのかって聞いたらさ、お前 “本当は間違ってたら、不安だから” って言ったんだよ」
 全然覚えていなかった。
「全然変わってねえなあと思ったよ。ま、そんな教育ばっかりやってきた俺たちにも問題あるんだろうけどな。あのな、教師引退して思うけどよ。社会も学校も、とりあえずの正解を選ばせるけど、正解すること自体には、大した意味はないんだ。その過程で、自分の頭で考えることに意味があるんだよ」
 先生は続けた。
「お前は彼女の気持ちが知りたいって言うけど……本当は、お前自身が間違っていなかったかどうか、知りたいだけだろう」
 そうだ。
 僕はAIのサジェスチョンによって選んだのではない、彼女との関係を正解にしたい。
 自分で選んだ結果、その選択が間違っていたら、耐えられない。
「先生の言うとおりかもしれません」
 僕は言った。
「それだけじゃない。彼女と付き合っている間も、僕は理想の恋愛像、こうあるべき姿に固執した結果、全然、彼女のことなんか見ていなかったんです」
「まあ、現実を見るのは辛いよな」先生は頷いた。
「相手との食い違いを一個一個見て、話し合ってすり合わせて……それでも、もし自分自身が出した答えを、相手が受け入れてくれなかったとしたら」
「そうなんです」僕は言った。
「僕はどこかで、彼女が僕のことを受け入れてくれなかったらどうしようって、恐れていたのかもしれません」
「それが分かっただけ、お前は偉いよ」先生は言った。「俺は何十年もかかって、致命的な失敗をして、やっと理解できたんだからさ」
 僕たちは黙って酒を飲んだ。
 しばらくの沈黙ののち、先生は言った。
「ところで、親御さんは元気なのか……お前が生徒だった頃、家庭が一時期大変だった、って担任から聞いた覚えがあるんだが」

               ✴︎
 
 父はエンジニアで、母はYouTuberだった。2021年の感染症禍の最中にマッチングアプリで出会い、結婚した。父も母も、穏やかな人物だったが、どことなく互いを「家庭」という機能を存続させるための部品と捉えているような感じがした。二人が会話しているところを僕は見たことがなかった。父は家にいる時はいつもソーシャルゲーム、母は配信に夢中で、僕の世話はいつも派遣のハウスキーパーさんがしていた。学校の勉強で分からないことがあり、父や母に質問しても、いつも答えは「Googleに聞いて」だった。AIが全てを教えてくれ、僕の思春期は順調だったが、深い話をする相手はいなかった。友人関係で悩み事を抱えた時に父に相談したが、困った顔をして「オンラインカウンセラーに相談してごらん」と言うだけで、すぐに自室に篭ってしまった。
 僕はAIが提案する正解だけを選んでここまで育った。服も、聞く音楽も、友達との会話も。不満はない。満足している。人と話すのなんて苦手だから、答えを教えてくれるのはありがたかった。マッチングAIから提案される恋人たちにも不満を持ったことはあまりなかった。けど、いつも皆、僕の前からいなくなってしまう。

               ✴︎
 
 再び、僕の目の前にはオフィーリアがいる。僕たちは静かな海辺の景色の中、向き合って立っていた。
「あなたは自分の考えを、大切な相手に伝えるのが怖いのね」
 オフィーリアの表情は和らいでいる。顔立ちは、アキラのようにも、僕の母のようにも見える。落ち着いた口調で、僕の全てを見通すように彼女は澄んだ目を僕に向けている。
「そうだ。僕はいつだって……本当に思っていることを、相手に伝えるのが怖かった。誰に対してだってそうだ。もし、伝えて拒絶されてしまったら? 聞いてもらえなかったら? 相手と深く話し合った結果、もし決定的に決裂してしまったら?……だから、恋人たちとも当たり障りなく付き合おうと思った。深く理解し合えなくたって、二人の関係が円満に続けばそれでよかったんだ」
 僕の足元にいるゆづるは、元の1.5倍ぐらいの大きさになっている。翠色と緋色の混じった毛並みは以前よりずっとツヤがあり、瞳には輝きがあった。背中にはトゲの代わりに立派なたてがみがあり、しっかりと4本足で立ち、僕を守るようにオフィーリアに向かっている。
「あなたが望んでいることは、本当にそれ?」
「嫌だ」僕は言った。
「本当は僕の本心を聞いて欲しい。でも、もしAIがサジェストした事以外を話して、引かれたら怖い。彼女に拒絶されて、彼女を失ったらどうしようって、僕は」
「あなたはアキラさんと交際していた時から、本心では満足を得ていなかった。それは、あなたが彼女に対して本音でぶつかることを避け、二人の間にある考え方の違いを乗り越えようとしてこなかったからでしょう」
「うるさい、そんな事分かってるんだ。分かってる。僕と彼女じゃ違いすぎるんだ。上手く行きっこないって分かってたよ。でも、僕は彼女が好きだった。彼女と上手く行けば、上手く行きさえすれば……」
「上手く行く事で、あなたが手に入れられると思ったものは何?」
「"間違い" を選べる自分、かな……」
 オフィーリアは頷く。
「あなたはご両親の関係を見て、足りないものを感じていたんでしょう? 自分に寂しい思いをさせたご両親には、互いを思い合う情熱が足りない。あらかじめ正解として提示された相手と結ばれることには、乗り越えるべき苦痛や困難がありませんから。あなたはアキラさんとの『恋愛』によって、両親がご自身に与えた寂しさを乗り越えようとしたんじゃないかしら」
 オフィーリアの姿はいつの間にか僕の両親の姿に変わった。最後に帰省した数年前、その時に見たままの彼らが目の前にいる。実家のダイニングテーブルを挟んで、まるで実物のように、ぎこちない距離を空けて座っている。
「お二人に対して、感じていることはありますか」
 オフィーリアの声が空から響いた。
「もしあるとしたら、言ってみましょう」
「父さん、子供の頃はいつも、僕に困ったことがあると自分のAIアシスタントを貸してくれてありがとう……でも、僕が本当にして欲しかったのは、それじゃないんだ。僕の悩みを、まず受け止めて欲しかったんだ。父さんの……父さん自身の言葉で、父さんの考えを聞きたかったんだ」
 話しているうちに、身体の奥底からふつふつと怒りがこみ上げてきた。
「悩みなんかなくたってそうだ。父さんはいつだってゲームに夢中で、僕の話なんか聞いてくれなかった。母さんもそうだ。いっつも配信ばっかりしてて、僕のことは見てくれなかった。なんでうちの家族は家族なのに、会話をしないんだろうって、いつも思ってた。……育ててもらったのに、こんなことを言うのは間違ってるかもしれない、でも」 
 僕は躊躇った。
「YouTuberを引退した母さんがうつ病になった時にだって、父さんは支援センターにつないだだけで、何もしなかったじゃないか。母さんはずっと寂しそうだった。退院した母さんが、VRの世界から戻ってこなくなったのも、父さんのせいだ……きちんと相手を見て、相手の話を聞けよ。夫婦だろっ」
 僕は、今自分が誰に向かって叫んでいるのか、自分でもよく分からなくなった。今、目の前にあるのはよく知る父の顔だ。偽物の父だ。でも、僕の脳からオフィーリアが作り出した、僕の中の父だ。
 やがて、目の前の父はゆっくりと口を開いた。
「父さんは、マッチングアプリで母さんと出会ったんだ。それまでずっと人付き合いが苦手で、恋愛経験なんか全くなくて。恋愛なんて面倒臭い、早く結婚して落ち着きたいと思っていたんだ。当時のマッチングアプリは今みたいに性能が良くなかったから、何度いろんな人と会ってもダメで。20何人目かでようやく付き合えたのが母さんだった」
「母さんも、画面越しに話すのは得意だけど、異性とリアルで話すのが得意なタイプじゃなかった。会話が苦手な二人にとって、互いはちょうどよかったんだ。家の中でそれぞれの時間が確保できて、ベタベタしたふれあいは求めない。最初のうちはよかった。でも、お前が生まれたら全部変わった。子育ては大変だった。二人とも初めてで、正解が分からない。ぶつかることが増えた。その結果、僕たちは話し合いを避けた。二人の意見を戦わせたところで、それが実りある時間になるかどうかは分からない。だったら全部、正解を知っているプロに任せよう。未熟な俺たちが努力するより、始めから正解を知っている存在に任せてしまう方が、きっと子供にとってもいいだろうと……」
 父さんは疲れた顔をしていた。家の中で、むっつりと押し黙って、何を考えているか分からない、僕を拒んでいるように見えた存在が、急に矮小な、自分よりも弱い存在のように感じられた。
「人と付き合うのは面倒臭い。俺は、お前が羨ましくさえあったよ。AIが全て答えを出してくれて、人間関係の摩擦を体験する必要もない時代に生きているお前が。……でも、お前の求めているものは、そうじゃなかったんだな」
 面倒臭いんじゃない。ぶつかって、拒絶されること、そのストレスに耐えられないだけなんだ。
 だから、黙った。子供の頃も、大学生になっても、社会人になっても、肝心な場面で僕は黙った。黙っていさえすれば、余計なことさえしなければ、とりあえずは正解だった。彼女に対してだってそうだ。僕はいつも、彼女が求めていることを薄々感じながら、関係が壊れるのが怖くて、彼女にまっすぐに向き合えなかった。
 彼女はそんな僕を見抜いていた。だから、僕が彼女にぶつからなくていいように、黙って消えたんだ。最後まで傷つきたくないという、僕の甘ったれた性格を、誰よりも知っていたから。
 父さんと母さんの姿が消えた。代わりにアキラの姿が現れた。オフィーリアが僕の考えを読み取って作り出した幻想だ。アキラは何か言いたそうに、うっすらと口を開け、こっちを見ている。
 僕は彼女に、言うべきことがあるはずだった。
 でも、それは……。
 僕はVRグラスを外した。オフィーリアの声が聞こえてきた。
「まだセッションは終了していません。グラスを付け直してください」
 僕は椅子から立ち上がり、上着を着た。鏡の前で軽く髪を整えると、玄関に向かい靴を履く。
「どこへ行くのですか」
「彼女のところだよ」僕は言った。
「行って、本人と直接話す。僕に必要なのは、彼女と対話することだ」
「ダメです。あなたはまだプログラムの全行程を終了していません。今のあなたに必要なのは、プログラムを最後まで受けることです」
「いいんだ、僕が選んだんだ。もう一度、彼女と話をする。間違っていたっていい。僕に欠けていたことは、彼女の話を聞き、彼女に本心からぶつかることだったんだ」
 僕はオフィーリアの制止を振り切り走り出した。

               ✴︎

 いつぶりだろう、こんなに本気で走ったのは。僕は待ちきれなかった。たまらなかった。彼女に会い、これまでの情けない自分を詫びる。彼女が必要としていたことをする。それで、もう一度やり直してくれと頼む。プログラムを受け、反省した今の僕であれば、きっと彼女も……。
 電車を乗り継ぎ、最寄りの駅で降りてから5分ほど歩いて彼女のアパートの前に着いた。僕はインターホンを押した。
 驚いたことに、ドアを開けて出て来たのは彼女ではなく、彼女によく似た初老の女性だった。目は落ち窪み、頰はこけ、顔は蒼白で、明らかに具合が悪そうだった。ドアの前にぽかんと立つ僕を見て、彼女は言った。
「もしかして、暮島サツキさん?」
「はい、そうです!」戸惑いで声が裏返った。「もしかして……アキラのお母さんですか?」
「ええ、そうよ」
 思った通りだった。今までアキラに彼女の両親の写真を見せてもらったことはなかったが、見れば見るほど、アキラにそっくりだ。きっとこの女性は、子育てパートナーのうちのどちらかなのだろう。同時に僕は安堵した。彼女が僕について、彼女の母親に話をしていたことを。
「アキラさんに会いに来たんです。僕ら、ちょっと、その……喧嘩しちゃって。彼女は今、どこに?」
 アキラの母親は、驚いたように目を見張ると、ぐっと眉根を寄せ、首を振って言った。
「あの子は先週亡くなりました」
 一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。な、く、な、る。……なくなる。って、亡くなる、か。死んだってことだ。……彼女が?
「アキラは先週、MERS2(新型中東呼吸器症候群ウイルス)に罹って……」彼女は目を伏せた。目の縁がわなないている。「夜中に高熱が出たって連絡が来たんです。その後すぐに病院に運ばれて、私たちが駆けつけた時にはかろうじて意識はありましたが、その後すぐに重症化して……」
 MERS2は去年から流行している感染症だった。罹患すれば致死性が高く、日本でもパンデミックとまではいかないが、じわじわと感染を広げていた。若者はかかっても軽症で済むケースが多く、また感染症の流行を体験していない世代なので、感染対策が甘いことが問題視されていた。
 まさか、アキラが……。
「私たちも、突然すぎてまだ受け止めきれていないんです。本当に、あっという間で」
 アキラの母親の顔には、深い落胆と悲しみが染み付いていて、それが嘘ではないことは一目瞭然だった。僕は、たった今知らされた事実をどう飲み込んでいいのか分からなかった。
「アキラの身の回りの人には、少しずつお知らせしているんです。ただ……」そう言うと、アキラの母は目を泳がせた。
「意識がなくなる直前にね、彼女、言ったんです。サツキさんには、私が死んでも知らせないで、って」
 言葉が出なかった。
「サツキさんとお付き合いしていたことは、私たちもその時初めて聞いたんです。そんな、一年もお付き合いした人なら、知らせた方がいいんじゃないか、って言いました。そうしたら、彼女言ったんです。『サツキは今、私と別れて深いショックを受けている。もし今、私が死んだことを知ったら彼はきっと立ち直れなくなる。レジリエンス・プログラムは万能じゃない。受けてもなお、深い悲しみから完全に立ち直れない人もいる。サツキさんはすごく繊細な人だから、知らせるべきじゃない、少なくとも今は』って」
 それから、彼女は申し訳なさそうに言った。
「お通夜も、お葬式も知らせなくてごめんなさい。……せめて、お線香、あげていって」
「僕は」言われたことを飲み込めないまま、僕は口を開いた。
「アキラさんに信用されていなかったんでしょうか」
 彼女は首を振った。「アキラはきっと、あなたのことを信頼してたと思う。……あなたのこと、彼女はすごくいい人だって言ってた。信頼と、二人でやっていけるかどうかはちょっと違うのよ」
 彼女は僕のことを、分かりすぎるほど分かっていた。僕が失恋で深く傷つくであろうこと。その上、彼女の死を受け止められるほどの器がないことも。互いが互いのパートナーではない、ということも。手荒な方法ではあったけど、ああでもしない限り、僕はいつまでもぐずぐずと引きずり、誰にも相談せず、レジリエンス・プログラムを受けることもなく、いつまでも傷を抱えて生きるであろうことさえも、彼女は分かっていたのだろう。
 呆然としながらも、僕は自分を奮い立たせようとした。目の前の小柄な女性は、きっと僕の何倍もの深い悲しみを抱えているに違いなかった。僕が今するべきは、傷つき、ショックを受けている彼女の苦痛を少しでも和らげることだ。この期に及んで僕は正解を探していた。でも、この場合はそれでいいんじゃないかと思った。もしこの場にアキラがいたら、きっとそれを望んだだろう。僕じゃ、頼りないのかもしれないけど。
「今、妻と二人で交代で仕事の合間にここにきて、片付けているの。このアパートは今月で引き払う予定なんだけど……思い出すと辛くて、なかなか作業が進まないのよ」
「手伝わせていただけないでしょうか」僕は言った。「お母さんの話を──聞かせてください。お母さんから見たアキラさんのことを。僕は、全然ダメな恋人で、アキラさんを幸せにできてなかったと思う。何度も間違えたし、彼女が生きている間に、彼女と向き合うことを恐れていた……だから振られたんです。でも、僕の知ってるアキラさんはすごく素敵な女性で……」
 涙が溢れてきた。彼女への思いが、彼女との思い出が、胸に詰まって苦しい。
 そっと肩に、小さな暖かい手が載せられた。
「どんなに相性が良くても、食い違いから上手く行かなくなることなんて、山ほどあるのよ。AIが手伝ったところで、それはゼロにはならない。AIはリスクを避けてくれるけど、偶然は防げないからね。その、偶然がつなげた細い糸をなんとかたどって、私たちは関係性を保っているのよ。あなたと彼女だってそうだったでしょう。でも、糸が切れたからって、意味がなかったとは思わないわ。アキラとの関係から学んだことを、将来どう役立てるかは、あなた次第なのよ」
 アキラの母は目元を拭うと微笑んだ。
「あなたの話を聞かせてちょうだい」
 
 僕たちは、アキラの残したお気に入りのカップでお茶を飲みながらいろいろなことを話し合った。深夜まで片付けを手伝い、また来ると約束して帰宅した。
 椅子に座り、視界のVRスイッチをオンにした。オフィーリアがいた。元の人間の姿をしていた。彼女は僕に怒るでもなく、静かに景色の中に佇んでいた。
「君の言う通りだったよ」僕は言った。
「僕は余計なことをした。君はせっかく、僕を痛みから回復させようとしてくれていたのに。……回復レベルは著しく後退したみたいだね」
「プログラムの進捗状況から言って、彼女の死をあなたが知ることは適切でないと私は考えました。だから止めたのです。今のあなたのストレス値は、前回よりプラス50。著しい後退です」
「そうだろうね」
「本プログラムはこれより先、親しい人を亡くした方向けのグリーフ・ケア・プログラムへと移行します。失恋からの回復プログラムとはステップやアプローチが異なりますので、私とも一旦、お別れです。またあなたに適した新たなカウンセラーが……」
 ゆづるは元の弱々しい姿に戻り、僕の足元で悲しそうに丸まっていた。毛並みは海の底のように深い、深いブルー。僕は彼の背中をそっと撫でた。どうにかして、僕はこいつを元気にさせてやらなければいけない。僕は彼の主人だし、僕そのものだからだ。
「いや、いいんだ」僕はオフィーリアを遮った。
「僕は自力で立ち直ろうと思う。すでにガイドラインの設定したストレス値の危険水準は脱しただろう?」
「……ええ。その通りです」
 オフィーリアは、何かを計算するようにジーという小さな音を立てながら言った。
「ただし、グリーフ・ケア・プログラムを受講しない場合、元の生活を送れるまで回復するには3倍の時間がかかりますが」
「それでいいよ。それは僕のやるべき作業なんだ。……それが、彼女が教えてくれたことなんだよ」
「プログラムを途中放棄するとなれば、修了バッヂも受け取れませんがよろしいですか? バッヂがあると、転職・修学などの場面で有利になりますし、恋愛や結婚の相手選びの際にも……」
「いいんだ」僕はよりはっきりとした口調で遮った。
「その代わり、こいつだけ残していってくれないかな」そう言って、僕はゆづるを指差す。
「こいつは僕のパートナーだから」
「……分かりました」オフィーリアは静かに言った。AIが満足なんてするかどうか分からないけど、ともかく、満足そうな声だった。
「プログラムが始まる前、私はあなたがかなりのレジリエンシーを持っていると判断しました。だからこそ、通常よりも少々、負荷のかかるセッションを提供しました。回復のためには、自己を見つめる期間が必要です。それは大抵、ある程度の痛みを伴います。あなたはそのことを理解し、自分から痛みの中に飛び込む勇気を持ちました。あなたは失敗や過去の挫折から学ぶ力を持っていた。それは尊敬に値します。──AIに尊敬されても、嬉しくないかもしれませんが」
「そんなことないよ。ありがとう」
「私はあなたの回復を信じています」
 オフィーリアは右手を差し出した。僕たちはVR空間の中で、固く握手を交わした。彼女の掌の温かさを、かすかに感じながら、僕はVRのスイッチを切り、そっと瞼を閉じた。