文化は持続可能か。
芸術と身体の両面からアプローチする、新しい音楽教育
1988年2月に設立されたソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)では研究者一人ひとりが、「人類の未来のために役立つか」という観点に基づき、新技術や新事業の創出によって人類・社会に貢献する研究や取り組みを行っています。10代のピアニストを対象に、身体教育、芸術教育を包括的に提供しているミュージック・エクセレンス・プロジェクトもそのひとつです。
ソニーCSLの研究員の古屋晋一は、このプロジェクトを通じて「文化は持続可能か」という問いを投げかけ、文化の担い手の一翼である音楽家たちが、身体運動学や神経科学の知見に基づいた効率的かつ適切な身体の使い方や練習法を学ぶとともに、心身のトラブルから解放されて音楽表現の探求に専念できるようにすること目指しています。音楽家が自身の「見かけの限界」を突破し、音楽という文化がさらなる高みへ進化していく社会の実現に向けた古屋の想いをご紹介します。
「ミュージック・エクセレンス・プロジェクト」内の
アカデミープログラム概要
10代のピアニストに向けた芸術と身体の包括的な音楽教育プログラム
アカデミープログラムは、10代のピアニストを対象とした身体教育と芸術教育を包括的に提供するプログラムです。音楽芸術活動に携わるアーティストの成長を支援する本プログラムでは、ピアニストが心身の課題から早期に解放されて、音楽表現の探求に専念できるようにすることを目的としています。音楽表現の高みを追求し、技術と精神両面の持続的向上につなげる包括的なピアノ教育プログラムは世界初の取り組みとなります。
自身の体験から、音楽家が身体トラブルに見舞われないような未来を願って
— なぜ、この研究を始めたのでしょうか。
私は3歳からピアノを始めて、一時はピアニストを目指していました。ベッドの横にピアノがあり、起きたらすぐにショパンの練習曲を弾くという日々で、休日には10時間ほど練習していたと思います。その結果、手の痛みなどさまざまな身体の不調が出てきて、「この曲ではこういう表現をしたい」といった音楽的なことではなく、身体の問題に悩まされる演奏人生でした。
それらの問題を解決しようと身体教育トレーニングもいろいろと試しましたが、私にはどれも十分な効果がありませんでした。そこで20歳のころにそれらをよくよく調べてみると、科学的根拠に乏しいものが多いことが分かったのです。驚きを覚えると同時に、音楽界でのニーズを考えると何か方法論を確立しなければいけない、という使命感のもと、日本、アメリカ、ドイツの大学で研究に取り組みました。
— これまでの身体教育が科学的根拠に乏しいのは、なぜでしょうか。
ひとつには、「根性があればなんとかなる」という発想が根底にあるからだと思います。私は自分では根性があるほうだと思っていますが、それだけで練習をし続けても上達しないことは身をもって証明しています。
また、芸術と科学を混合しがちなことも一つの原因です。これまでの研究者は、音とのつながりを考えずに「適切な身体の使い方はこうだ」と言い切ったり、「こういう表現にしたほうが感動する」と説明するなどの傾向がありました。そのような言い方をされても、音楽家からすると「科学者に何が分かるのだろうか」となりますよね。表現を決めるのはアーティストの仕事であり、その表現をどのようにすればつくることが出来るかを考えるのが私たち研究者の仕事です。そこを切り分けて理解できていないので、演奏家のための身体教育は科学的に途上にあるのではと思います。
— 教わる側からしても、元ピアニストの古屋さんが言うなら、という意識がありそうですね。
そうかもしれません。ただそこに頼るのも格好悪いなという思いがあります。例えば眠りに悩む大人が「有名な○○大学の教授が書いた」という触れ込みの睡眠の書籍を読んだら、すぐに良い睡眠が取れる気がするかもしれません。
一方で、私のアカデミープログラムに参加している子どもたちはすごく素直で、私のレッスンで演奏が劇的に変わったことを体験しているので、「この人の言うことなら信じようかな」と思って参加してくれています。子どもたちは私の肩書や普段私が研究をしていることもきっと知りません。そのほうが、正面から向き合っている感覚があるため私は好きですね。ちゃんと結果を出して、子どもたちのやりたいことをサポートするのが私の仕事で、それをやり続けないと信頼が失われてしまうという恐怖感はいつもありますし、楽しいところでもあります。
— どのような流れでソニーCSLの研究員になったのでしょうか。
ソニー製品のユーザーだった父の影響で、小さい頃からソニーのことは大好きでした。2009年に東京・お台場にあった科学館「ソニー・エクスプローラサイエンス」(現在は閉館)で「音楽を科学しよう」というイベントがあり、世界的に著名なピアニストであるラン・ランさんと一緒に私も出演したのですが、そのときに、「ソニーCSLという研究所があっておすすめだよ」といろいろな人から声をかけてもらったことがきっかけです。2017年の公募に応募し、ソニーCSLの研究員となりました。
芸術教育と身体教育を組み合わせる、新しい音楽教育
— 新しい音楽教育の形態とのことですが、プロジェクトの概要を教えてください。
私が発案したミュージック・エクセレンス・プロジェクトでは、10代のピアニスト向けに音楽教育を提供するアカデミープログラムを2020年7月から展開しています。ピアノ演奏のアカデミープログラムは世界中にたくさんありますが、身体教育を取り入れているのは私たちのプログラムだけです。ただし、芸術教育なしでは音楽教育は成り立たないと思っているので、身体教育だけではなく、ピアニストである講師の皆さんからは表現方法についてのレッスンを行っていただきます。
ピアニストの先生から表現方法についてレッスンを受けると、多くの生徒は、「どうやってその表現を作ればいいのだろう」、という問題に直面します。めざすゴールは明確でも、やり方がわからないという状況です。その段階で私がコーチングに入り、「さっき先生がこういう表現をしてねと言っていたよね。その時の手の使い方は分かる?」というようなコミュニケーションをしながら、生徒の身体の使い方をカメラで撮って、スローモーションで再生して見せたりもします。
そうやって身体の使い方を習得すると、「じゃあ目指していた表現はできるようになったのか」という最初のポイントに立ち返らなくてはいけません。もし目標を達成できていなかったら、また違う身体の使い方を試していく、という流れですね。
— アカデミープログラムの中では、どのような技術を使用しているのでしょうか。
センサーやカメラによって、ピアニストの身体の動きを把握し、分析する「技能のマルチモーダルセンシングシステム」という技術を使っています。このシステムにより、演奏中は見えない身体の部分を虫眼鏡のように拡大でき、また、自分の体の外に五感を作るこという、二つの「能力の限界突破」が可能になります。
また、このシステムはレッスン中にリアルタイムで使えるだけでなく、レッスン後の復習にも活用できます。私がレッスンを受けていた時代は、ウォークマン®やDATでレッスンを録音して帰宅後に楽譜を見ながら聞き返すという、音だけの復習でしたが、このシステムを使えば、視覚情報と音を鮮度のよい状態で保存できるので、学びを衰退させません。
— 「何時間練習しても弾けなかったところが一瞬で弾けるようになった」というフィードバックもあったようですね。
そうですね。人間が知覚できるものには限界がありますが、ピアノ演奏のような速い動きだとなおさらです。しかしセンサーなどのテクノロジーの力により自身の現状をしっかりと認識できるとこれまでの知覚の限界を超えることができます。それは普段の反復練習だけでは達成できないことだと思います。
— アシスタント講師の皆さんに、古屋さんのノウハウをどのように共有しているのでしょうか。
これはすごく大切なテーマです。アカデミーの一つの目的はジュニア育成ですが、もう一つは指導者の育成です。音楽大学で指導方法について十分に教わっていない方でも、卒業後はいきなり教える側に回らないといけないことが多くなります。
そこでアカデミーでは、指導者の皆さんに生徒が変化する場面に立ち会っていただくことにより、自身の体験と結びつく形で身体教育についての学びが進んでいきます。アシスタント講師たちからは、指導のレパートリーが増えたとのコメントをいただいています。
逆に気を付けないといけないのは、身体を使うことのみに意識を集中させないことです。例えば階段を降りるときに「右足が先でその次が左足で」と考えないように、無意識で動くようになることが大切ですし、意識しすぎると動かなくなることもあるのです。そのため、私は言いたいことの9割は捨てて、1割だけ伝えるようにしていますし、講師の方にも心がけていただいています。
あと、「現象」ではなく「原因」を直すというのもポイントです。例えば、ピアノを弾くときに肩が上がっていると見た目としては変ですが、身体にも音にも問題が生じていなければ別にいいんです。素晴らしい音が響いているのに「肩が上がっているよ」と伝えるのは「髪型が崩れてるよ」と言うのとほぼ一緒だと思っています。
音楽文化の進化に貢献するために
— このマルチモーダルセンシングシステムの使い方が分かれば、一般的なピアノ講師の方でも身体教育ができるようになるのでしょうか。
そうなることを皆で目指して作っています。一般的に、ピアノ教室等で指導されているピアニストの皆さんは音楽のプロですが、身体のエキスパートではないことが多いと思います。そうした先生方にこのシステムを使っていただけると、二つのメリットがあります。
まず、先生にも身体と音との関係を学んでもらえます。加えて、あまり意味のないことにレッスン時間を使わなくて済みます。「どうしてここで響く音を出さなくてはいけないのか」といった音楽という文化の本質を教える必要はあっても、「どうして音が響かないんだろう」、「手のひらがへこんでるからだよ」というような話にはピアノ教室で時間を使わなくていいと私は思っています。
— ピアノをこれから学ぶ小さなお子さまがこのアカデミープログラムに挑戦すると、かつて誰も到達しなかったような演奏レベルとなる可能性があるのでしょうか。
それが私たちの理想です。今は、一つの表現方法の習得に膨大な練習時間がかかるので表現の選択肢が限られてしまいがちですが、私たちが提供する教育を幼少期から活用していただくと、多種多様な表現を使い分けることができるようになると考えています。
私たちのシステムが直接音楽という文化を進化させることはできませんが、このシステムを使った新しい教育が普及することで文化のボトムラインを引き上げることができると思います。その中で、今まで想像もできなかったような表現を選択するピアニストが出てきたらおもしろいですし、そうならないと文化にダイバーシティが生まれず寂しいですよね。
— プログラムに参加した皆さんはかなり上達されたとのことですが、古屋さんの目にはどう映っていましたか。
練習の仕方がずいぶん変わってきていて、とても成長を感じましたね。以前は、反復練習でなんとかしようとしていましたが、今は、「こうやったらうまくいくんじゃないか」と仮説を立てて、検証のプロセスもある程度は自分でできるようになったので、「この子たちは大丈夫」と思っています。
必死に努力しても才能が伸びなくて、「私の才能ってこれぐらいか」と決めつけてしまう方がいますが、私はそれを「見かけの才能」と呼んでいます。教える側から見ていると別の練習方法だともっと伸びることに気が付きますが、生徒の皆さんが自分自身で状況打破の方法を発見して、「見かけの限界」を突破し続けられるようになってきたのはいいことだなと。ずっと隣で教えてあげることはできないので、私がいなくても限界突破ができるようになって、さらにその方法を受け継ぐ人たちがたくさん出てきてくれたら嬉しいですね。
音楽家の限界突破を目指して
— 実用化によって、アカデミープログラムを一般にも展開していく予定はあるのでしょうか。
そこがこれからの課題ですね。実用化するためには、システム全体のコストダウンや安定した挙動が必要ですし、何より私がいなくても教えられるようにならないといけません。そういった意味でも、まさにアシスタント講師の皆さんの存在が大切です。
必死に頑張って、それでも一定以上のレベルからより高みに行けないトップピアニストは母数が少ないので、彼らの限界を突破してあげるのは商業的に難しいです。また、そうした問題を真剣に考える人たちも少ないです。
ただ、一流のアスリートを支援する制度が充実しているように、トップアーティストをそのままにするのではなく、彼らに寄り添う意義を皆さんにも理解いただきたいです。そうしたサポートによって文化が次の時代に継承され、発展していくと思っています。
— 外部との協業も進めていくのでしょうか。
そうですね。外のパートナーが増えていくのは大切ですし、一人で始めたことにたくさんの人が協力してくださるというのはとてもうれしいことです。また、最先端のテクノロジーに取り組んでいるソニーグループ内で、私たちの音楽教育が、テクノロジーによるアートへの貢献の一つの事例となったらいいなと思っています。連携できる部分もたくさんあると思うので、グループ内でのつながりも大切にしていきたいですね。