Cutting Edge

やがて世界中のIoTデバイスは、
ELTRESによってつながるかもしれない

2019年7月31日

一説によれば、2020年にIoTデバイスの数は世界で約400億台になると予測されている(※)。とりわけ農業や畜産、あるいはダムや河川の水位をはじめとする水害対策のための「屋外センサー」は、今後ますます需要が伸びていくことだろう。そのデバイスの通信を担うべく、ソニーが開発した低消費電力広域(Low Power Wide Area、以下LPWA)通信規格 が、ELTRES(エルトレス) だ。いったい、どのような技術なのだろうか? 開発の背景には、どのような苦労があったのだろうか? 3人の関係者に訊く。

※ (出典)「平成30年版情報通信白書」(総務省)

プロフィール

  • 小林 誠司

    ソニーセミコンダクタ
    ソリューションズ株式会社
    プラットフォーム技術部門

  • 米山 悠介

    ソニーセミコンダクタ
    ソリューションズ株式会社
    IoTソリューション事業部

  • 中原 健太郎

    ソニーセミコンダクタ
    ソリューションズ株式会社
    IoTソリューション事業部

ELTRESは、光ディスクの技術から生まれた

──ソニーにおいて、IoT向けのLPWA ネットワーク技術の開発は、いつごろ、どのようなかたちでスタートしたのでしょうか?

小林:アイデア自体は2010年くらいからありました。「転送レートを0.5 bpsまで低下させることで、通信距離が50kmまで延びるはず。ただし同期検出が難しくなるので、GPS衛星の信号を使って時刻同期を取る」というのがその内容でした。受信基地局を日本全国で250か所に設置することで、サービス可能、投資額は2.5億円、というのが当時描いていたビジネスモデルです。2012年末に社内でブレストしたとき、「おもしろいからやりましょう」ということになり、2013年の4月からプロジェクト化しました。

──どういう背景からLPWAのアイデアが生まれたのでしょうか?

小林:元々の技術は光ディスクなんです。ソニーが製造販売している光ディスクの中には、勝手にコピーされない、つまり海賊版を防止する技術が入っています。それで著作権保護をしているわけです。データ量は非常に少ないのですが、雑音の中に入っている小さい信号を引っ張り出す技術でして、それをそのまま無線に適用すれば、きっと遠くからもデータが取れるのではないか……、というのが出発点です。最初は、僕一人でスタートしました。

──米山さんと中原さんは、どの段階でプロジェクトに加わったのでしょうか?

米山:小林さんが試作機を作られて、実際に近距離間をデータが飛ぶようになったころに加わりました。それ以前はテレビの受信用LSIの開発に携わっていたのですが、ちょうど仕事が一段落したところに、お声がけいただきました。

当初は、距離が出ないことをはじめ、課題がたくさんありました。それらをどう解消していくかを検討するため、まずは受信機の試作機を作りました。私は入社以来ずっとテレビ関係の開発をしていたのですが、テレビ受信機というのは、テレビ信号以外の電波(妨害波)があってもきちんと映らなければなりません。そのため、妨害波に対する耐性には常に気を使ってきたので、そのノウハウを取り込んで、どんな電波環境でも受信できる技術の完成を目指していました。

まだプロジェクトの規模は小さく、試作機を作りながら同時に仲間作りをしなければいけなかったことも大変でした。開発の時間を削ってでも、一緒にビジネスをやれる会社を探すべく展示会で名刺を配って歩き、展示会後にはいくつもの会社を訪問して回りました。昔の仕事仲間や、大学時代の同期にまでメールをしましたね(苦笑)。

中原:僕が加わったのは2年ほど前ですが、それまでは隣の部署で別の通信方式の開発をしていました。ELTRESの事業化が決まったことを受け、小林さんと米山さんが作られていたプロトタイプを、製品化に向けて仕上げていくという段階で入らせていただきました。

「荒業」によって可能となった特長

──ELTRESの特長として、長距離安定通信、高速移動通信、低消費電力が挙げられますが、なぜそれらが可能となったのでしょうか?

小林:普通の通信は、汎用性や互換性を持たせるために、冗長性(無駄)があります。ELTRESの通信フォーマットは、長距離通信性能を上げることに徹底的にこだわって最適化しました。例えば、ELTRESで送信するデータの長さは128ビット固定で、変えることができません。その結果、データ長を受信機に伝える必要がなくなり、その分を通信性能に割り当てることができました。また、普通の通信であれば「通信を開始するよ」という開始信号である「プリアンブル」を最初に送信します。このプリアンブルがもったいないので、ELTRESでは思い切ってなくしてしまいました。送信機と受信機がGPS時刻で同期しているので、このような荒業が可能になりました。

また普通の通信では、同期を保つために同期パターンと呼ばれる信号をまとめて挿入しますが、ELTRESでは、同期パターンをバラバラに分解し、信号の中に周期的にばらまいています。一定周期で同期パターンが現れるので、信号を周波数成分ごとに分解するフーリエ変換を行うことで、通信路の変動を検出 できるようになりました。だからELTRESは時速100km以上の移動中でも検出できるのです。

──LPWAの開発競争において、ソニーはどのような位置にいるのでしょうか?

米山:「自分たちが作っているものが本当にワールドワイドで勝てるのか」ということで、いろいろ調べたところ、似たような技術がヨーロッパにありました。ただ、それぞれ特長が違っていました。我々の通信方式は通信品質の部分で尖っていたので、そこを伸ばしていけば差異化できるだろうという結論に至りました。

小林:僕らの方式は、ソニーの技術を全部かき集めているので、思いっ切りアドバンテージがあったんです。

米山:そうですね。最先端の技術を入れて、通信が途切れずにつながるものを作り込んでいったので、通信品質の良いものができたと思います。

──具体的には、ソニーのどのような技術を取り入れているのでしょうか?

米山:通信システムの方式自体には、小林さんが光ディスクで培った技術が生かされていますが、それを実際に製品化するとなると、例えば半導体の技術が必要になってきます。テレビでいうと、チューナーLSIはテレビ放送以外にもいろいろな電波が飛んでいる中で、常に放送を受信するための回路技術の研究を積み重ねてきたわけですが、そうしたテレビに使われるLSIを、今回、受信機にそのまま移植するかたちで取り入れています。

一方で送信機側では、できるだけ低電力で、効率のいい送信LSIを内製しています。そういったところも、他社と大きく差異化できた部分だと思います。

小林:あとは、なんといってもソニーが昔から得意とする「誤り訂正」の技術です。雑音が入るとデータって間違えてしまうのですが、それをある方法で直すというもので、30〜40年間にわたって培ってきた技術です。今回は、ソニーのテレビ ブラビア にも採用されている最新版を使用しています。

第1世代は通信原理実験用に試作したもので、通信距離は事業所構内で2km程度であった。第2世代では、通信距離を延長させるための試行錯誤を重ね、8km→42km→147km→274kmと飛躍的に通信距離記録を更新した。その後、第3世代でELTRESの技術実証試験を実施し、これはPoCキットとしてリリースされた。

送受信機の試作品の変遷

IoT時代に向けての可能性

──2013年に開発をスタートした時点から比べると、新たな技術革新や社会環境など、大きく変わった部分はありますか?

中原:ここ数年で、IoTという言葉が定着しましたよね。これまで無線化してこなかったアプリケーションがいろいろ登場しはじめ、センサーやマイクロプロセッサーの価格も安く、しかも高性能になりました。また、データの処理技術も発達し、ディープラーニングも含めて、集めたデータから意味を抽出することができるようになりました……といった変化が、同時並行的に進んでいると思います。あとはコネクティビティなんです。ハイエンドな話は5Gでいいと思うのですが、ちょっとしたデータを安く届けたいということで、LPWAが注目されているのがここ数年の話です。今まさに広がり始めている技術で、どこで本格的に使われるかというのは本当にこれからなので、現時点ではなかなか予測が難しいのが正直なところです。

──その予測をするべく、現在は、どのような分野や地域で実証実験を行なっているのでしょうか?

米山:例えば子供の見守り実験です。子供に装置を持ってもらい、どこにいるのかわかるようにする実験です。それが転じて、避難訓練の際などに高齢者に装置を持っていただき、ちゃんと避難できているかを確認する実験も進めています。

そうした実証実験に加え、「通信距離がどれだけ出るか」とか、「どんなところで使えるか」といった、通信実験も並行して行なっています。例えばLPWAは、テレメーターといっていろいろなところにあるメーターをセンシングして管理することに使われているのですが、私たちも、電力やガスの検針に使えないかを試しています。

あと、長野県で昨年開催されたアドベンチャーレースに実証実験を兼ねて協賛しました。アドベンチャーレースは、地球上で最も過酷なレースといわれているものです。スタート地点とゴール地点と途中のチェックポイントが決まっているだけのコースを、地図のみを頼りにトレイルランニング・マウンテンバイク・ラフティングなどで、昼夜を問わず走破し速さを競うというレースです。レースの運営事務局から、「参加チームのアクシデント発生時の救護や設定時間超過時のリタイア指示などのためにトラッキングデバイスが必要なのですが、コースのほとんどが大手キャリアさんの3G/LTEのサービス圏外のため使えるものがなくて」という相談を受けて、送信機・受信機を提供したんです。我々は山岳地域における電波伝搬やランナーに取り付ける端末についての知見を得られ、レース運営事務局からは参加チームやコーススイーパーの見守りができたと感謝されました。また参加チームが山中で迷っている様子や競っている様子が地図画面で手に取るようにわかるので、エンタテイメントにも使えそうだというフィードバックもいただきました。

小林:長野といえば、いちばんウケているのが温度計です。「ビニールハウスの中に置いておくと、温度を3分に一度計り、そのデータがインターネットに上がる」というただそれだけなのですが、とても好評です。「ビニールハウスの中にWi-Fiを飛ばせばそれで済むのでは?」と思われるかもしれませんが、ひとつのハウスが200mあるものもあったりするので、実際問題としてWi-Fiは届きません。

ビニールハウスの中は、冬になって温度が下がるとボイラーによって自動で暖めるのですが、もしボイラーの燃料が切れていたら、ハウスの中の苗がダメージを受けてしまいます。その時は飛んで行かなければならない。その点、この温度計があれば、ハウスの温度を遠隔で監視できます。そうした予想もしていなかったアプリケーションが、次々に登場しているという状況です。

温度の次は、植物の根っこの状態を知りたいとか、空気中の二酸化炭素の濃度を知りたいとか、そういうニーズが次々出てくると思います。

「遠くまで届く」ことが意味すること

──実際、ELTRESはどれくらいの距離間で通信できるのでしょうか?

米山:富士山の測候所に送信機を置き、越冬の試験をしているのですが、同時に、受信機だけ持って歩いて、どこまで届くかという実験もしています。現時点での最長記録は321kmです。地球は丸いので、長距離になると山などが影になってしまうのですが、和歌山県の那智勝浦に「富士山の写真が撮れた最遠の地」があるということで、チームメンバーが休日を使って訪れたところ、無事、受信することができました。

「見通せれば飛ぶ」というと、「そりゃそうだよね」と思われがちなのですが、実際にはかなり高度な技術を必要とします。我々が使用しているLPWAという周波数は、携帯電話などと違ってライセンスがいらない「Unlicensed Band」という電波帯なので、ELTRES以外にも、例えばスマートメーターに使われるようなさまざまな無線が飛んでいる帯域なんです。その中で「距離が離れていても、安定して通信をつなげる」ためには、受信した複数の波形を合成して感度を高めたり、誤り訂正符号などを活用したデータの補正、そして通信へのさまざまな干渉を除去するアルゴリズムを受信機に搭載するといった高度な技術が必要なんです。321kmという距離できちんと通信ができるというのは、先程小林さんがおっしゃった誤り訂正技術や、受信機の回路技術などを組み合わせた、我々の技術の成果だと思います。

日本全国の実証実験(自社での実験とPoCキットを契約したお客様の実験)。全国30か所の受信機に対して通信できた場所に色が付いている

──これだけの距離間で通信ができるという事実は、今後どういった意味を持つのでしょうか?

米山:距離が出るということは、ひとつの受信基地局を設置するだけで、非常に広いエリアをカバーできるというメリットにつながります。基地局をたくさん設置すると、コストに直結します。ELTRESは、いろいろなセンサーに取り付けていただくことを想定していますから、コストはなるべく低い方がいいわけです。

──具体的には、どの程度のコストになるのでしょうか?

小林:携帯電話って、基地局からの通信範囲は半径1〜2kmだといわれています。ELTRESの場合は、場所によって異なりますが、少なくとも半径10〜20kmは楽にカバーできるので、半径で10倍、面積だとその二乗なので、基地局の数は1/100でいいことになるわけです。携帯電話の基地局は全国に40万局程度だとされていますが、ELTRESの場合は1,000局程度でカバーできるのではないかと考えています。受信基地局の設置・運用コストが安くなるため、回線費用も桁違いに安くすることができます。

米山:そうなってくると、人だけではなく、物に取り付けることも現実的になってきます。

先程のビニールハウスの温度管理もそうですし、ため池や中小河川の水位監視や橋梁の異常検知など、これまでは人が見て回ったり何かしらのコストを払ってメンテナンスをしていたものを、センシングと通信で遠隔監視・管理できるようになってくると、社会全体でメンテナンスコストが下がるはずです。 今後、インフラが老朽化してくるという課題が待ち受けています。人手不足などの問題で管理が難しくなるようなところも、効率よく遠隔管理できるようになれば、その維持に役に立てるのではないかと考えています。

中原:一方で、遠くまで届くということは、受信圏内にある端末の数も桁違いになっていくことを意味します。例えば、受信機は携帯電話より100倍多く処理しなければいけないということが、プロトタイプから製品に向かうところでのいちばんの課題でした。

「誤り訂正」など、非常に洗練された無線技術をたくさん使うということは、裏を返すと処理が重たいということなんです。実際、その点には苦労しました。そこで今回は、今までCPUで処理していたものを、FPGA(Field Programmable Gate Array)と呼ばれるハードウェアを使って信号処理をすることで、従来の100倍速くすることを目指しました。さらに、SDR(Software Defined Radio)と呼ばれる「ソフトウェアで無線をする技術」を昔から社内でも研究しているのですが、その研究の積み上げ、いわば技術の結晶を、ELTRESに生かせたと思っています。

今後に向けての課題とは?

──ほかに課題を挙げるとすれば、どういった点になってきますか?

米山:セット製品としての作り込みだと思います。小さいPayloadの中にどのようなデータを詰めるのか。例えば一日にデータを送る回数がどの程度だと最適なのか。それはユースケースごとに異なってくるはずです。

実証実験をやっていく中で課題が出てくるはずですが、そこはまだまだ見えていないところがあります。課題が出てきた段階で、一緒に開発を進めている企業や自治体と、解決に向けて取り組んでいくことになると思います。

中原:ELTRESは、GPSから時刻を取り、その時刻に同期して送信と受信のタイミングを取っているのですが、本当にメリハリの利いた通信方式だと思います。強みを徹底的に生かすために、片方向通信だったりするわけですが、なんでもできるようにするとほかの技術に似てしまうところもありますから、尖らせたところを生かしたまま、弱みは研究開発で補いながら、今後も技術開発を続けていきたいと思います。

──標準化については、どのような状況なのでしょうか?

小林:2018年に、ETSI(European Telecommunications Standards Institute)というヨーロッパの電気通信全般にかかわる標準化機構において、国際標準規格として公開されました。ETSIは携帯電話なども標準化しているところで、普通だと5〜7年はかかるといわれたのですが、UKのメンバーの力添えもあり、1年で決着がつきました。しかも、ソニーが思っていたことが100%採用されています。僕は、光ディスクで長く標準化に携わってきましたが、提案したすべてが規格に採用されたというのは初めての経験です。

いよいよIoTの時代が幕開けします。一説によれば、2020年にIoTデバイスの数は世界で約400億台になると予測されていて、あちこちで活発な研究開発が行なわれています(※)。無線通信技術も、現時点ではELTRESと似た方式がいくつかあり、乱立状態です。ELTRESは進化を続けながら、やがてすべてのIoTデバイスで使われる無線通信技術になってほしいと願っています。

ここにいる若い2人が、それを実現してくれるはずです。

※ (出典)「平成30年版情報通信白書」(総務省)

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