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不安や恐怖も個性として受け入れる「メンタル・バリアフリー社会」の実現をめざして。

Culture

科学技術の発展によって経済的な豊かさや便利で快適な暮らしを手に入れた一方で、「ストレス社会」とも言われる現代。仕事や日々の生活にストレスを感じ、心の病を抱えている人も少なくありません。こうした問題に脳神経科学の分野からアプローチされているのが、株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)の研究員である小泉さん。不安や恐怖といった一見ネガティブな事象も脳の揺らぎや個性として捉え、「メンタル・バリアフリー社会」の実現をめざす小泉さんに、研究テーマに対する思いや研究活動におけるこだわりなどをお伺いしました。
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小泉 愛

「不安」とどう付き合うかが、人生を大きく左右する。

—まずは、小泉さんの研究活動について簡単に教えてください。

心の働きを支える脳のメカニズムを理解して、日々の生活の中で不安や恐怖に悩ませれている人のサポートをするための技術開発につなげることに取り組んでいます。実際に人の役に立つ形でサポートにつなげたいと思うと、未開拓の脳メカニズムに気づいたり、基礎研究と実社会とのギャップを痛感することがあります。そのため、基礎研究と技術開発を行きつ戻りつして両輪で活動することを心掛けています。

—心の働きの中でも「不安」を専門にされているそうですが、どのあたりに興味関心を持たれているのでしょうか?

「嬉しい」とか「怒り」とかさまざまな感情がありますが、それらは比較的一時的なものだと捉えています。一方で「不安」は、程度の差こそあれども、私たちの生活の中でいつもすぐ横にあるものだと感じています。日々の仕事や家事の中で行うちょっとした判断から、転職しようか、留学しようかといった人生における大きな判断まで、さまざまな意思決定に深く関わっているのが「不安」です。そしてそれは個人においてはもちろん、企業や関わっているコミュニティにおける集団のダイナミクスにも影響しています。つまりは、「不安」とどう付き合うかによって人生が変わると言っても過言ではないと感じています。

—そもそも「不安」について研究しようと思われたきっかけは?

私は米国の大学に留学して学部教育を受けたのですが、大学1年の授業がはじまって1週間程ほど経った頃に、アメリカ同時多発テロ事件が起きました。事件それ自体も大変衝撃的で私自身も大きな不安や恐怖を感じましたが、まわりの人の事件に対するリアクションを見ていて私も事の重大さを再認識したと共に、不安や恐怖が個人だけでなく集団心理や行動にも大きな影響を及ぼすということを印象的に体験しました。

—なるほど。ご自身の体験が、研究テーマにつながっていたのですね。

心理学を学んでいくなかでその後も「不安」や「恐怖」といったキーワードが出てくるたびにその当時の様子や私自身が体験した記憶と結びつき、研究対象として「不安」を取り扱うことへの学術的な興味が深まっていきました。心の働きそのものについては視覚や記憶など幅広い研究に取り組んでいくことになったのですが、人間の心の働きの根底には「不安」という感情があるのではないかという想いがいつもあり、「不安」を専門にして研究を行うことになりました。

脳の個性に価値を見出し、活かせる社会をめざして。

—心の働きに関して、小泉さんが提唱されている「メンタル・バリアフリー社会」について教えてください。

「不安」や「恐怖」を感じる脳の振る舞いを必ずしも異常として捉えるのではなく、「揺らぎ」や「個性」として享受できる社会、それが、私がめざす「メンタル・バリアフリー社会」です。

—「不安」や「恐怖」というと、どうしてもネガティブな印象があるのですが。

脳の振る舞いとして何が適応的で何が不適応なのかということは、絶対的なことではなくて、その人が生きている時代がともすれば決めつけかねないことです。たとえば、強い記憶として脳に「不安」や「恐怖」を刻み込む心理的トラウマも、人類の進化の過程においては適応的であったと言えます。例えば、目の前にオオカミやトラが現れたときに、冷静に状況を分析している余裕はありません。たちまち食べられてしまいます。こうしたさまざまな未来に起こり得る危険から人を守ってくれていたのが、「不安」という防衛機能を用いた脳のメカニズムです。

—進化の過程で「不安」が重要な役割を果たしてきたことはわかりましたが、現代社会において「不安」を「個性」と捉えて活かすことは可能なんでしょうか?

もちろん、現代人を悩ませる心の問題を理解するだけでなく、やわらげる手法を開発することは重要だと考えており、実際に私も取り組んでいます。一方で、一見すると不適応に見える脳の振る舞いの裏側には気づかれていなかった才能が潜んでいる可能性もあります。そうした「個性」に着目し、精神疾患を従来よりも包括的で肯定的に捉える研究アプローチの構築にも同時に取り組んでいます。人類の長い歴史の中で現代という瞬間を切り取ったときに、そこでたまたまこの時代には疾患であると診断された人たちが頑張って現在を乗り越えるだけではなくて、集団として、社会として個性を許容できる状態が理想的だと考えるからです。

米国留学時にマイノリティを経験したからこそ、バリアフリーな世の中を希求。

—個人が乗り越えるのではなく社会全体が受け入れるという発想は、とてもインクルーシブな試みだと感じます。こうした発想の原点はどこにあるのでしょうか?

自分自身もマイノリティだという感覚があるからだと思います。米国には高校3年生から留学していたのですが、1学年1,000人もいる中でアジア人は私1人だけでした。もともと日本の学校にもあまりフィットしない感覚を持っていました。特に10代の頃は、どこへ行っても自分はなんとなくまわりと少し違っているなと感じていました。

—小泉さんにマイノリティとしての経験があったんですね。

私自身がそうなのですが、いつもクラスの隅にいてその存在に気づかれにくい学生は学校教育の中では少なからずいると思っています。その存在が気づかれにくかったとしても、その学生独自の世界観を持っているのだと考えます。私自身、普段は全然声を発している姿を見かけない学生や、しばしば不登校であった学生、いわゆるクラスの中心とは距離を置いている人と気が合い、仲良くしてもらっていました。クラスの中でスポットライトを浴びている学生を中心に回っている社会(学校)はどこか偏りがあるなと感じていました。決して学校が嫌いだったというわけではないけれども、どこか日々の学校生活の中に息苦しさがありました。そのときの感覚が、いまの私の考え方に影響しているのかもしれません。

「不安」は、人が生きようとする力。

—小泉さんが描く「メンタル・バリアフリー社会」の実現に向け、具体的に取り組まれていることを教えてください。

たとえば、自閉症(自閉スペクトラム症)と診断された方の採用活動を、ソニーグループの特例子会社の1社とともに取り組んだ事例があります。自閉症の方の中には、対人コミュニケーションを苦手に感じられている方もいます。一般的な採用活動では、面接プロセスの中で自分の魅力を面接官にとってわかりやすい言葉で伝える必要があります。しかし、必ずしも言葉による表現がベストなコミュニケーションツールではない人も社会には存在していると考えています。そこで、コミュニケーション方法の多様性を包含できるような模擬課題を製作して、その課題に取り組んでもらう過程で見えてきた適性を評価対象として、実際に採用に至りました。

—「こだわりを持って取り組む」という自閉症の方の個性を、企業が上手く活かすことができた事例ですね!

一方で、採用活動としては通常よりも熱量の高い労務が必要にもなりました。このような新しい活動をソニーグループ全社もしくは社会全体に広め、継続的に実施していくためには、活動に携わる個人がボトムアップに動かすだけではなく、社会全体に集団や組織として「いろいろな人がいるメリット」を明示的に理解していく手段を考案する必要があると感じています。そのうえで組織の建設的なダイバーシティー化に貢献できないかを私自身模索しています。

—なるほど。こうした実社会における難しさがあるからこそ、小泉さんは基礎研究と技術開発を往復するわけですね。

実際の社会にはさまざまな人と人の関係性や力学があるわけで、基礎研究をすることで得られた理想的な統制下での実験結果をそのまま当てはめることは往々にしてできません。それと同時に、倫理的な理想論にとどまらず科学的エビデンスを携えて解決策を提示することも大事だと私は考えています。だからこそ、基礎研究と実社会で利用できる技術開発をすることの両輪を回すことで、「集団の中で個人差(脳の個性のばらつき)があることにはどのような社会的メリットが存在しているのか」ということを見出そうとしています。

—あらためて、小泉さんにとって「不安」とはどのような存在なのでしょうか?

「不安」とは、人が生きようとする力だと思っています。人が生きていくためには、攻めるだけではなく守ることも大切です。危ないことは回避しなければいけないし、身体に不調があるときは感知しなければいけないわけです。そのように考えると「不安」は必ずしも取り除くべきものではなくて、むしろ生命の中心にあるエネルギーであり、人が生きるために獲得してきた知恵だと考えています。

〈編集部のDiscover〉
「不安」とは、耐えなければいけないもの、払拭しなければいけないもの、乗り越えねばならないもの。自然とそう思い込んでいましたが、小泉さんにお話を伺って、捉え直すことができました。人類の歴史を俯瞰して本来の意味を問い直してみる、裏側にある可能性に目を向けてみる、それを個性と捉えてみる。こうした眼差しは「心の働き」にとどまらず、広く現代社会に求められていると考えます。「メンタル・バリアフリー社会」の原点には小泉さん自身の体験があり、そして研究結果に裏打ちされたサイエンスがベースとなっているからこそ、理想論の夢物語ではなく、来るべき未来の可能性として希望を持つことができました。


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